自分史アルバム

40代

1994/01/28
福岡市障害者スポーツセンターにて。ダイハツシャレードでスポセンへ休日に通う。
車は妻の通勤用が主なので、妻の仕事が休みの休日にプールへ通うも、50分かかるので
水泳は1年未満で断念。1993/06〜1994/02/ぐらいまで。

44歳

1994/04/11 

花鶴丘団地の福祉会で古賀神社で花見



縁会という↓障害者グループに参加していた頃



1994/10/
妻の腰痛悪化で実家の敷地にミニハウス建設し、郷里の当条にて暮らす事にするも、諸事情により引っ越せず縁者への
借家とす。

 



1997/05/05 広川中学校第一回同窓会(扇屋)



1996年10月14日父が死去した。翌日広川町役場へ死亡届けを出しに行くと知徳のアキトシしゃんが奥の机に座っていた。
彼とは子供の頃いつも遊んでいたので20年ぶりの再開に懐かしさもひとしおとなり[こんだ、小学校の同窓会ばせにゃいかんの」と、つい、口走ってしまった。
広川に引っ越すつもりで家も建てたし、父の法事などで頻繁に当条に帰っていた。在宅障害者は暇なので小学校同窓会をやってみようと、当条の
同窓生の名簿作りから始めた。実家が残っている所は消息もつかめるが引っ越している人も多く、名簿作りは容易ではなかった。
(小学校は上・中・下と3つの校区にわかれ、広川中学校でひとつになる)

当時、PCは使えず文豪ミニというノート型のワープロ専用機を持っていた。マニュアルを見ると往復はがきにも印刷出来るとあった。
早速、往復はがきに印刷して投函した。しかし、返事のほとんどは欠席であった。ガッカリと肩を落としペコちゃんが経営する喫茶サンラビへ行って、
「下広の名簿はあるけん、中学の同窓会ばせんかい」と持ちかけた。するとペコちゃんは「よかよ、中広の名簿は俺が作るけん」と乗り気になった。
問題は上広だが、なんとかなるだろうと見切り発車した。アキトシしゃんにこの事を伝えると、無理だろうと言ったが、強引に押し切って、
下広川小学校の同窓会を広川中学校の同窓会に変更した。計画の変更と根回しが不十分なため、当初はクレームもあったが、
ハガキを出して行くうちに賛同者も増え、次第に盛り上がりを見せて行った。(387人中137人の参加者)



下広川小学校同窓会



1998/02/21
広中同窓会のメンバーで宮地嶽神社参拝



宮地嶽参拝後脇田温泉楠水閣へ投宿





姪の結婚式にて

 



親戚の結婚披露宴いとこ同士3人↓




1999 若年性脳卒中後遺症者向けの機能訓練教室に参加



 

1999/05/03母が死去、自宅葬。



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