見舞いの風景>     

1985年4月2日。福岡県筑後市の国立療養所C病院に転院した。
実家からは3キロほど離れたところにあり、戦時中は陸軍病院だった。戦後は結核療養所となり福岡県南地方で神経性難病の治療とリハビリに当っている。

「留蔵が倒れて筑後病院に入院しとるげな」

どこから聞きつけたのか、中学の同窓生や村の幼馴染がゾロゾロやってきた。私は惨めな姿を彼らの前にさらすのが苦痛だった。家族以外には会いたくない心境であったが、

「友達の見舞いに来とらっしゃるばい」

母からこう言われると断るわけにもいかず、渋々見舞いを受けた。誰もが決まったように、

「留ちゃん、絶対ようなるけん、頑張らんの」

誰もが決まったように同じ言葉を残して足早に去っていく。

普段は交流の薄い人までが顔を見せるので興味本位で来ているように思える。見舞いを受けるのも気が重い。見舞いにかこつけて友人が集まり。久しぶりだから、帰りにどっかで飲んで行こうという流れになるのが、田舎の常識である。わかっちゃいるけど・・・。

ある宗教の熱心な信者である美知子さんは、

「お兄さん、この念仏を唱えたら気持ちが落ち着きますから」

そう言われて唱えてみるが、一向に気は晴れなかった。治癒の見通しが全く立たないのに、宗教どころではなかった。弟にはこれまで世話をかけているし、これからも何かと頼ることになろうから、美知子さんの勧誘を無下にもできずに困ってしまった。
良枝さんはどうしているだろうと考える方が救われた。治って歩けるようになったら良枝さんに会いに行こう。そう考えるとリハビリを頑張ろうという気になれるのである。

留次郎は家族思いの良い奴なのだ。3年前妹の知子の亭主が競輪で借金を作り出奔した。そのときも事態の収拾に大いに汗をかいた。今回も弟は熱心に病室を訪れ、ろくでもない兄貴のためにマヒした足をマッサージしてくれるという兄弟愛を発揮した。麻痺した足を揉んでもらうのは実に気持ちが良いものなのである。良い弟を持ったと留次郎には感謝あるのみだ。

脳卒中など正体のはっきりしている疾患は、業病とはいえ進行性の難病よりも軽いと言えるかもしれない。筑後病院には治療の方法すらない進行性の難病を抱えた人たちも入院している。リハビリ病棟の主任療法士は山根先生だ。30代後半の経験豊かなPTである。私の足が異様に突っ張りが強いのを見て、

「アキレス腱延長手術ばしてみるか。しかし、すぐに元に戻るしねえ・・・」

「・・・」

「根性出さんとしかたなかね。授産施設に行くことも考えとかな」

山根先生はあきらめ顔でこんなことを言って、もう普通の生活には戻れないことを暗に示した。腕の立つPTだけに、一目で手の施しようがないことを見抜いているようだった。実際、僕の手足の緊張の強さは強烈である。体重をかけて膝を徐々に曲げる。でも、ちょっとでも力を抜くとビビーンと反射し膝は伸び切ってしまう。アキレス腱がピアノ線でできているのではないかと思えるほどだ。
                              

普通、人間の足の膝はわずかに曲がって歩いている。立っているときも実は膝は曲がっているのだ。緊張が強いと膝を曲げることができない。歩くたびに膝にガチッとロックがかかるので滑らかな歩行ができない。反張膝と呼ばれる。

5月中旬、補装具を作ることになり業者が来て型取りがあった。
6月7日、膝から下両サイドにかけて鉄製の支柱が付けれれた革靴。短下肢装具なるものができた。料金は8万円である。その費用は生命保険の入院給付金で払った。

        

早速、短下肢装具をはいて歩く練習を始めた。バランス感覚は異常がないので立つことは出来る。しかし、膝が全然曲がらないので足の振り出しができない。つまり歩けないのだ。それでも私は気合を入れた。そして麻痺した足に渾身の力を込めれば振り出せることを知った。と言っても普通に足が振り出せるわけではない。麻痺足は大きく外を回って前方に出る。これは外旋歩行とかブン回し歩行とか言われるものだ。

この歩き方は異常歩行なので長く続けていると、足が変形したり膝が痛んだりすると聞かされた。山根先生はしきりに膝を曲げて足を前に出せと叱咤する。だがどうしても出来ない。毎日朝から晩まで歩行訓練に汗を流した。膝を曲げて地面を蹴って歩くことをイメージせよと言われるが、そんな事とても不可能である。イケナイ歩き方だとわかっていても、気持ちが焦る。しゃにむに歩くので、足がぶんぶん回る。ガラスに映る我が身のあまりのみすぼらしさに思わず涙しそういなる。

歩くというより介助移動と言った方が適切な表現かもしれない。杖、補装具がないと一歩も歩けないから。社会通念上、歩くというのは素足でスタスタと歩ける状態を指すのだ。辛い訓練を諦めて、このまま何もしないで自堕落になるか、自分が決めねば他の誰も決められない。

そのことはわかってはいるのだが、それでも何かに頼らずにはいられない精神状態がときどき訪れる。そんな時、人は宗教に目覚めるのだろうか。仲間の一人が美知子さんと同宗になった。彼は総会屋だったが、僕より軽い麻痺で宗教にすがるなんて、そんな気の弱い事で、総会屋などという荒仕事ができるのだろうかといぶかしく思った。

僕は、無学で煩悩のおもむくままに暮らしてきたので、高尚な精神の持ち合わせがない。金が欲しい。旨いものが食いたい。女が欲しいと生々しいことばかりが脳裏をよぎった。誰かに打ち明ければ、そんな体になっても、まだそんな事ばかり考えているのかと言われそうで心の奥に鍵をかけた。
                            
<おかしな報告書>

季節は巡り、お盆過ぎの暑い日の事だった。D建設の中村さんが那覇労働基準監督署の係官を案内してきた。病院の一室を借りて聞き取り調査が行われた。
労基署の担当者は言う、

「山下さん、作業日報を見ると休日も定期的にあるし、残業もありませんね。これで労災を認めろなんて、そんな事は通りませんよ」

吃驚した。

「えー、でも、前から血圧も高くなかったし、残業だって夜遅くまで毎日やっていました。休みは正月だけですよ。昼飯を食う時間だってなかったし」

これだけ言うのが精一杯だった。足が緊張でガクガクしている。

「申請書にはそんあ事は書いてありません。それに仕事が原因ならなぜ、他の人たちも発病しないのですか?可笑しいじゃありませんか」そう切り返されると何も言えなかった。

9月下旬、自転車に乗って母が一枚のハガキを持ってきた。労基署からである。裏面を見ると、

「労災の認定はありません。この決定に不服があるときは60日以内に不服申し立てをしてくださいと書かれている。予想はしていたがガックリときた。家族は裁判をしてまでという気はなかった。私は大いに不満であったが自分で動けないのでどうすることもできなかった。主治医からもうこれ以上の回復は見込めないからと、強く退院を迫られた。10月12日、C病院を退院して自宅に戻った。