九州筑後の国(福岡県南部)は、応永30年(1423年)から戦国期(1584年頃)まで豊後の守護大名である大友氏の支配下にあった。筑後には15城の国衆がいた。同族で婚姻を繰り返し、近隣と常に争った。その最大の勢力が柳川に居を構える蒲池氏であった。筑後の国の総取れ高は32万石と豊穣だ。蒲池氏の力が強大になるのを大友氏は恐れ、蒲池家17代蒲池治久の代に、弟息子を大名分として分家させた。以降蒲池家はふたつに分かれる。上蒲池(分家・上妻郡)と下蒲池(本家・山門郡)である。
分家の上蒲池氏は上妻郡山下村(現八女市)に城を築いた。その城から2里ほど北に山下城の支えとして、知徳村に城が築かれた。一条和泉守という蒲池の家臣が守っていた。広川町史によると、平時は一条村に起居し、16町を知行した。村人は一条殿(いっじょどん)と呼んでいたそうだ。 天正6年、1579年。日向の耳川で大友氏は島津氏と争い大敗を喫した。戦国大名として急速に力を付け、肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信が漁夫の利を得んと、天正7年、筑後へ侵攻を開始し、2万余の軍勢で山下城に襲いかかった。領主は領内から徴集された農民と、武士合わせて500人で山下城に立て籠もった。しかし、籠城数か月に及び兵糧が底をついた。徴集された農民で餓死する者も出始めたので、城主の蒲池鑑広は水田天満宮に陣を敷く、龍造寺隆信を訪ね降伏した。その後天正13年、知徳城は龍造寺の攻撃を受け、一条殿(いっじょどん)は知徳村の大野ガ原で討死した。
戦国時代の農民は敵が攻めてくると領主と一緒に戦わねばならない。負けると農民は生け捕りにされて他国に売り飛ばされるか、奴隷として勝者側の下僕として生涯仕えねばならない過酷な時代であった。戦で負けた蒲池氏の武士達は禄を失い、落ち武者狩りを逃れるため、近隣の村に潜み、その後、農民となった者も多くいた。
(吉永正春著「筑後戦国史」藤木久志著「雑兵たちの戦場」広川町史参照)
蒲池氏はその後滅亡したが、その姓は筑後地方に今も多く残っている。明治8年。平民苗字必唱義務令が出た。その前の明治3年に、たれもが苗字を付けてよいとの触れも出ている。江戸時代まで武士と公家しか名乗れなかった。苗字をたれでも付けてよいというのである。にわかに苗字を付けろと言われ民衆は「せからしかと」と顔をしかめた。
食えもしない苗字など欲しくない。民がいうことをきかないので、明治新政府が近代国家移行を急ぎ、平民苗字必唱義務令を法律で義務化したのである。苗字が無い者は、新たに作らねばならない。下々は渋面しながらも。どうしたものかと首をひねった。ある故老が村の集会で、戦国時代の山下城籠城戦の惨状を語りだす。そうだ。家の先祖もあの戦に出たばい。そいけん、先祖の苦労ば偲んで、先祖祭りば今もしよるとげな。俺は今日から山下を名乗るばい。うんにゃあ、俺ゲの先祖は野田ばい。俺ゲは歴とした蒲池の末裔(すえ)ぞ。今日からおどんな、蒲池治郎兵衛ばい。おまいどんの主筋ぞ。
「こくな。おまいが蒲池の末裔(すえ)という証拠がどこにあるか」
などと村の衆は喧しく騒ぎ立てた。騒動を聞きつけて役人が庄屋の元に出張った。
「慎め。お上からのありがたいお触れであるぞ、料簡せよ」
と叱られた。
広川町川瀬にある西念寺は、蒲池家ゆかりの寺であり、我が家も檀家であった。
知徳城(広川町)の跡に下広川小学校がある。学校の裏には薩摩街道が通っていた。天正15年(1587年)豊臣秀吉が島津氏討伐の際に通ったとされる。太閤道と呼ばれていた。小学校の東に戸数200ほどの当条という集落がある。そこに北ん切という隣組がある。僕はこの北ん切で油屋の長男として生まれ育ち、下広川小学校へと通った。続きはこちらで