ハビリセンターで1年半の訓練期間が終了し、1987年3月31日退所した。少しでも収入になるようにと、密かに鶏を平飼いしようと思っていた。実家の空き地で鶏を飼いたいと切り出した。これはセンターにいるときから考えていたことである。週刊誌で鶏の放し飼いをしている人の記事が紹介されていたのである。それを読んでやってみたいなあと漠然と思っていた。
「そげなこつは止めとけ。匂いがして臭かけん。近所から苦情が出るぞ」
父は何でも反対した。昔からそうなのだ。車の免許を取るときも。自動車を買うときも。なんでも反対である。ま。これはどこの親もそうであるらしい。親の言うことを聞け。田舎ではこの一点張りである。
「最初は少しから始めるけん、よかろうもん」
すると弟がこう言った、
「父ちゃん、兄ちゃんもあげん言いよるし、リハビリち思うとけばよかやんね」
それから親父は何も言わなくなった。
設計図も何も無い。すべておうまん(適当)である。実家のネギダレ(軒下)に置いてある廃材を集めて鶏舎作りにかかった。猫の額ほどの空き地に基礎にするコンクリートブロックを四隅に埋める。ブロックの穴にちょうど良い丸太を差し込んで4本の柱を立てた。これに梁で4本の柱をつないで、トタンを被せて周囲を金網で囲い、出入り口と給仕口を作れば良いのだが、これが想像を絶する作業になった。

装具をはいてブロックを運ぶだけでも大変な労力を必要とした。片手でブロックを持ち上げるのは、土工だからお手の物だ。しかし、ブロックを片手に下げて歩き始めると麻痺足が内反してしまう。健側の右足に体重を乗せ左の麻痺足は子供自転車の補助輪のような感じで慎重に慎重に歩を進めた。麻痺足を上げると足の裏が内返りをするが、着地すると緩むのであるからなんとも不思議だ。

梁と柱を釘で止めることがどうしてもできない。柱と柱に梁を乗せて釘打ちすることが、一人だと難しいのだ。これはたとえ、両手が使えたとしても不可能なことなので、一方を母に押さえてもらって固定した。金網張り、戸口の建てつけ、鶏がエサを食べることの給仕口など、一人ではどうしても出来ない所の造作は典子が休みの日手伝きた。当初ひよこを入れていく育すう箱も作らねばならなかった。そうこうするうちに母が入院していった。

5月に入ると鶏小屋も完成し、申請していた障害年金の受給も決まった。初回金の振込みがあったのでこれをはたいて軽トラックを購入した。車がくると、ちかくの孵卵場でひよこ20羽を入手し、さらに50羽を追加し育て始めた。

1987/05/<おんぼろ鶏舎が完成>
 

ひよこが小さい間は目が離せない。典子とのデートもそっちのけで飼育に夢中であった。やがて梅雨入りすとひよこもはとぐらいの大きさに育った。デートの場所は昔すんでいた、今は廃屋に汚い部屋である。ポータブルトイレを持ち込んで、家族とは離れて暮らしていた。近くに九州自動車道路のサービスエリアがあるのでここへ裏側から入ってコーヒーなど飲んだ。母は高速道のレストランへ皿洗いにきていた。

梅雨がなかなか明けない。1ケ月雨が降り続いてゲンナリした。9月に入ってようやく日差しが戻ってきた。ひよこも大分大きくなりったので、典子とのデートにもでかけられるようになった。
 
軽トラの助手席に彼女を乗せ、熊本の阿蘇方面へドライブにでかけた。しかし、気がかりなことがひとつある。鶏が卵を産む場所をどうするかである。何もなければ地面に産む。それではマズイ。小屋の中に箱を置いておけばその中で生むのは間違いない。鶏は暗くて狭い場所があれば必ずそこで産む習性がある。

小屋の中にイチイチ入って卵を取りにいくのも面倒だ。外から卵を取れるような工夫がいる。私は大急ぎでデートを切り上げ、ホームセンターへ行って産卵箱を作るための資材を購入した。それから1週間かかりで巣箱を完成させた。11月下旬になると産卵を始めたので毎日が楽しくなった。朝の11時頃になるとコッコッーと泣き声がするので鶏舎に行ってみる巣箱の中で鶏がうずくまっている。鶏をそっとどけると、そこには生みたての卵が鎮座している。母の手術も無事すんで家に帰ってきているので、卵は母にもっていった。

せっかく始めた養鶏であるが昭和62年末に結婚のため古賀町花鶴丘団地へ引っ越す。


                   




サンコスモの一室で、


毎週木曜日が教室の日
リフトバスで送迎もあった。



風の丘農園・みかん狩り

 1999/サンコスモ古賀/在宅障害者向けの機能訓練教室に参加した。みんなで何かやりたい事はないかと市の担当者が言うので、西瓜を葡萄棚に成らすのをやってみたいと提案した。他に意見がないので、とりあえず、市の意向を問うてみると了承された。サンコスモ古賀の裏門外にわずかな空地があるのでここを菜園にする事にした。空地のそばを幅2メートールほどの水路があるので、これに人が落ちないようにコンクリートの蓋がなされた。この費用は100万円ほどかかったと聞いた。
水路に蓋がされると用地の開墾をボランティアの手を借りて始めたが土が硬くて鍬が立たない。一同、途方に暮れていると宮本係長が2tダンプ1台分のマサ土を手配してくれたので広げて堆肥も入れ表土とした。
 

 
ボランティアの人が手伝ってくれた。


網で吊るす前、これからぐんぐん大きくなるも
収穫直前に1個盗まれる。




FBSめんたいワイドの取材



これは2000年/自主活動に移ってから


 機能訓練教室は厚生省の若年性脳疾患者の機能訓練事業であって、
そのモデル事業として古賀市が選ばれた。よって2000年3月で終了。
以降は自主的なサークル活動としてするよう話があった。
行政主導の教室は解散されたわけだが、引き続き障害者サークル
活動の一環として養鶏に取り組んだ。









近くの保育園から先生が、
「まぁるいたまごがパチンと割れて中からヒヨコがぴよぴよぴよ」
と歌いながら見学にやってくる。




近くの保育所の園児たち




OT栄さんの子供、教室終了後も時々畑の様子を見に来ていた
生まれて間もない「ゆいき君」↓




7月草むらに西瓜の種を捨てていたら芽が出た
育てていたらこんなに大きくなった。
そのころ大きくなったゆいき君が遊びにきたので記念撮影


卵を売りにサンコスモの福祉課へ