キ27が、九七式戦として正式採用されるのと前後し、陸軍はその後継機を得るべく、中島飛行機にキ43の名称により試作発注した。この試作における軍が要求したスペックは最大時速500キロ以上、高度5000mまでの上昇時間5分以内、行動半径800km以上、武装は7.7ミリ機銃2挺というものだった。これは九七戦を相応にレベルアップしたものであるが、最後に付けられた九七戦と同程度以上の運動性能を有するという一項がが問題である。 |
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開発 | ||
テスト | ||
昭和16年、南方資源、特に石油を確保するために、日本が米英との開戦、南方への侵攻を決意したとき、ビルマを占領する計画はなかった。単にビルマを基地とする英軍が背後からマレー侵攻作戦を妨害するのを防ぐために、ビルマ南部の一部占領と、限定的な航空作戦がのみが行われる予定であった。しかし、第15軍によるビルマ侵攻は予想外に順調で、やがて作戦はビルマ全土への占領に切り替えられた。 その一方、陸軍航空部隊の主力と、開戦時、新鋭のキ43、一式戦一型「隼」を装備した部隊、59戦隊及び、64戦隊は、マレー欄印(インドネシア)方面に向けられていた。当初、ビルマに投入された陸軍戦闘機戦闘機隊、七七戦隊、つづく50戦隊は、いずれも古い固定脚のキ二、九七戦装備で、っ重慶軍の米義勇航空軍「フライングタイガーズ」のP40B型、および英空軍が保有するバッファロー、ハリケーンなどの新型戦闘機を相手に苦戦することとなった。しかし、マレーと欄印方面の平定後、ビルマに投入された64戦隊の一式戦部隊は、連合軍戦闘機を押し返し、やがて「隼」に機種を改変して帰ってきた50戦隊とともに、ビルマの空で、規模は小さいながら、日本陸軍航空史上にも稀な完全勝利の数々を記録することとなった。 ビルマ、インド洋面での航空作戦は、機動部隊のインド洋作戦/セイロン島攻撃と、陸海軍共同のカルカッタ空襲、アンダマン諸島、ニコバル諸島の防空等をわずかな例外として、その全てが陸軍航空部隊によって行われた。 同地区での航空戦は、南太平洋方面での島嶼(とうしょ)を巡る海上戦闘とは違って、陸軍航空隊が長年に渡って想定、演習してきた野戦的な内陸戦であり、恒常的な兵力の不足にもかかわらず、その実力を存分に発揮し得る戦場だった。 戦闘機隊には、九七戦、一式戦、二式単戦、二式複戦、後には少数ながら、三式戦、四式戦などの新鋭機も配備され、錬度の高い操縦者が、連合軍側の新鋭機と鎬を削った。 ビルマでの航空戦は、後のフィリッピン、マリアナ方面などの主戦場に比べれば、遥かに規模も小さく、戦闘密度も低かった。だが空戦を児戯に類するほど 単純に「航空機の損失と、撃墜戦果」という観点からのみ見れば、陸軍戦闘機隊は、質量共に勝る英米の戦闘機隊に対して昭和20年の二月まで、ほぼ互角の勝負をしていた。とはいえ、日本戦闘機の数は少なすぎ、どれほど奮戦しても、末期の絶望的な地上戦闘の趨勢(すうせい)には、いささかの影響をも及ぼすことはできなかった。 ともあれ、陸軍航空隊は、昭和二〇年四月末に至るまで、連合軍の圧倒的な制空権の間隙を突き、ビルマで粘り強く戦い続けたのである。 この文章は、ビルマ航空戦(梅木弘著・大日本絵画発行)上巻序章よりの引用。この本はビルマでの航空戦の様子を敵味方にわたり、実に丹念に検証してあるので日本陸軍機ファンには当時の画像と一読いただければ当時の様子が実感できるだろう。 |
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銃弾唸るその中に | ||
空の軍神 | ||
一式戦・隼を語る_檜與平(桧与平)エースパイロットの証言 | ||