キ27が、九七式戦として正式採用されるのと前後し、陸軍はその後継機を得るべく、中島飛行機にキ43の名称により試作発注した。この試作における軍が要求したスペックは最大時速500キロ以上、高度5000mまでの上昇時間5分以内、行動半径800km以上、武装は7.7ミリ機銃2挺というものだった。これは九七戦を相応にレベルアップしたものであるが、最後に付けられた九七戦と同程度以上の運動性能を有するという一項がが問題である。

旧機体より、速度、上昇力を向上させるには、馬力の大きい発動機が必要になる。発動機自体は、旧作のそれより当然大きく、重く、それに比例して機体も大きく、重くなる。物理の法則に照らすまでもなく、大きく重い機体が、より小さく軽い機体に比べ、運動性が鈍くなるのは自然の摂理であって、これを逆転するのは不可能に近い。

陸軍はキ43に対し、その不可能な事を要求したのである。九七戦の究極の格闘戦能力に眼が眩み、現実を見誤ってしまったとしか言いようがない。中島飛行機は九七式戦の時と同じく、小山悌設計課長の指導のもとに、大田稔、青木邦広、糸川秀夫技師をそれぞれの担当部署責任者に配して作業にかかった。

試作受注からちょうど1年後の昭和13年(1938)年12月、中島飛行機工場(群馬県・太田市)にて、キ43の試作1号機が完成した。完成した機体をテストしてみると、最大速度は500km弱、高度5000mまでの上昇時間は5分少々とほぼ合格点だった。しかし。九七戦の格闘性能に心酔していた陸軍戦闘機隊、とりわけ、その教育機関の中枢である明野飛行学校の審査官が、同機を運動性能良否の判断基準にしてゆずらず、より大きく重いキ43が水平面の旋回格闘で、九七戦にどうしても勝てないことを理由に採用価値なしと判断した。

あらかじめ予測されたこととはいえ、中島設計陣においては、まさにやりきれない思いであったろうが、会社の死活問題にもなりかねないので、引き続き完成した試作、増加試作機(13機発注)に、改良を加えて、なんとか軍側を納得させる機体にしようと努力した。

不採用の正式通知はまだ出なかったが、昭和15年(1940)夏頃には、もはやキ43は誰の目にもお蔵入りは確実視され、中島では、9月の増加試作最終号機の完成後、工場内の組み立て冶具を撤去しはじめた。

ところがこの頃、陸軍中央部に、キ43に思いもよらぬ展開がおき始めていた。それは来たるべく対連合国開戦、すなわち、太平洋戦争に備えるための兵器調達計画だった。

日本は軍事力の根幹となる石油資源に乏しい。したがって戦争勃発と同時に南方侵攻作戦を実地し、欄印(現インドネシア)の石油資源を速やかに奪取しなければならない。

海軍のゼロ戦は、すでに中国大陸の実践において、無類の航続性能を発揮していたが、、陸軍の現用主力戦闘機九七戦は、最南端の欄印(現・ベトナム・カンボジア)からでさえ、マレー半島までの往復作戦ができない。

慌てたのは陸軍参謀本部である。同本部はただちに飛行実験部に対し、仏印からマレー半島各地まで往復できる戦闘機の調達を打診した。当時、実験部隊長の今川一策大佐は、双発機キ46(一〇〇式司偵)、キ48(九九式双軽爆)の転用とともに、キ43の落下タンク仕様を提唱し、会議の結果、最も実効性が高いキ43案が選ばれた。もっともこの時点では、侵攻作戦のためだけに準備されるもので、その配備予定数は、わずか3個中隊分40機にすぎなかった。

限定的とはいえ、不採用とあきらめ、冶具まで撤去していた中島にとって、キ43の生産発注は思いもよらぬことで、ただちに主要幹部が東京に参集して、航空本部と協議のうえ、生産準備に着手した。

日本陸軍海軍戦闘機(文林堂刊)18ページより引用
機体にについては詳細な記述がなされているので参照されたい。

開発
テスト

昭和16年、南方資源、特に石油を確保するために、日本が米英との開戦、南方への侵攻を決意したとき、ビルマを占領する計画はなかった。単にビルマを基地とする英軍が背後からマレー侵攻作戦を妨害するのを防ぐために、ビルマ南部の一部占領と、限定的な航空作戦がのみが行われる予定であった。しかし、第15軍によるビルマ侵攻は予想外に順調で、やがて作戦はビルマ全土への占領に切り替えられた。

その一方、陸軍航空部隊の主力と、開戦時、新鋭のキ43、一式戦一型「隼」を装備した部隊、59戦隊及び、64戦隊は、マレー欄印(インドネシア)方面に向けられていた。当初、ビルマに投入された陸軍戦闘機戦闘機隊、七七戦隊、つづく50戦隊は、いずれも古い固定脚のキ二、九七戦装備で、っ重慶軍の米義勇航空軍「フライングタイガーズ」のP40B型、および英空軍が保有するバッファロー、ハリケーンなどの新型戦闘機を相手に苦戦することとなった。しかし、マレーと欄印方面の平定後、ビルマに投入された64戦隊の一式戦部隊は、連合軍戦闘機を押し返し、やがて「隼」に機種を改変して帰ってきた50戦隊とともに、ビルマの空で、規模は小さいながら、日本陸軍航空史上にも稀な完全勝利の数々を記録することとなった。

ビルマ、インド洋面での航空作戦は、機動部隊のインド洋作戦/セイロン島攻撃と、陸海軍共同のカルカッタ空襲、アンダマン諸島、ニコバル諸島の防空等をわずかな例外として、その全てが陸軍航空部隊によって行われた。

同地区での航空戦は、南太平洋方面での島嶼(とうしょ)を巡る海上戦闘とは違って、陸軍航空隊が長年に渡って想定、演習してきた野戦的な内陸戦であり、恒常的な兵力の不足にもかかわらず、その実力を存分に発揮し得る戦場だった。

戦闘機隊には、九七戦、一式戦、二式単戦、二式複戦、後には少数ながら、三式戦、四式戦などの新鋭機も配備され、錬度の高い操縦者が、連合軍側の新鋭機と鎬を削った。

ビルマでの航空戦は、後のフィリッピン、マリアナ方面などの主戦場に比べれば、遥かに規模も小さく、戦闘密度も低かった。だが空戦を児戯に類するほど
単純に「航空機の損失と、撃墜戦果」という観点からのみ見れば、陸軍戦闘機隊は、質量共に勝る英米の戦闘機隊に対して昭和20年の二月まで、ほぼ互角の勝負をしていた。とはいえ、日本戦闘機の数は少なすぎ、どれほど奮戦しても、末期の絶望的な地上戦闘の趨勢(すうせい)には、いささかの影響をも及ぼすことはできなかった。

ともあれ、陸軍航空隊は、昭和二〇年四月末に至るまで、連合軍の圧倒的な制空権の間隙を突き、ビルマで粘り強く戦い続けたのである。


この文章は、ビルマ航空戦(梅木弘著・大日本絵画発行)上巻序章よりの引用。この本はビルマでの航空戦の様子を敵味方にわたり、実に丹念に検証してあるので日本陸軍機ファンには当時の画像と一読いただければ当時の様子が実感できるだろう。
銃弾唸るその中に
空の軍神

一式戦・隼を語る_檜與平(桧与平)エースパイロットの証言