常用人夫 (30歳)
借金もなくなったのでまた当条のアジトで寝泊まりするようになった。借金をケンちゃんに払っても15万円ほどの現金が残った。久留米の自動車販売店でエンジンは動くが車体がボロボロのサニートラックを見つけ5万円で買った。全塗装をしてこのボロ車を蘇らせた。
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サニトラを転がして久留米のパチンコ店に行くと、偶然にも博多の人夫出しで一緒だった中村信三と再会した。今は佐賀の現場にいるという。小倉の現場で親切にしてもらった佐多建設の友田という現場監督が佐賀県城原の高速道路の現場にいるので、そこで働いていると言った。久留米の親戚を頼り、関西の在所から家族を呼び寄せアパートを借りて現場まで通っているというのである。
「山下さん、今、何ばしとるね」
「別に何もしよらんです」
「そんならちょうどよか。城原の現場に来んね。食いっ放しで6000円は出すやろ」
ブラブラしていると話すと、今常用の人夫を捜しているので城原の現場で一緒に働かないかというのである。佐賀平野の端にある現場事務所を訪ねて友田と面会し働かせて欲しいと申し出ると、
「ああ、そりゃあよかった。ちょうど人数が欲しかったですけん。昼飯付きの日当6000円でよかなら明日から来てくんしゃい」
僕は30歳になったばかりで、車の運転もできるしガス切断機が使える。シャッター屋にいたときは電気溶接もしていた。高架橋を専門にしている佐多建設の現場では欲しい人材なのだという。
人夫と言えば高齢者が多く車に乗れないし、ガス切断や電気溶接もできない。それにコンクリート打ちなどの重労働は体への負担が大きく無理が利かない。若手の人夫はどこの現場も欲しがっているようだ。こうして今度は佐賀県神埼のの現場で働く事になった。作業着と下着類をサニートラックに積み込んで飯場に引っ越した。布団と飯・風呂は用意してあるからこういう雇用形態を向こう飯向こう糞という。
城原の現場川に掛けるのは長崎自動車道の高架橋である。しかし、ここも半年で工事が終了した。次の現場は鳥栖の牛原というところにあった。長崎道の高架橋工事だ。鳥栖の現場監督は中村という40年配のタクシー運転手上がりの馬面の男である。僕は若いから便利屋としてコキ使われた。ユニック(トラッククレーン)の運転からゴモクゾの片づけから足場の組み立て、支保工の組み立て、コンクリートの打ち込み、左官工事、土木作業全般、あげくのはてにNHK福岡のラジオアンテナ塔解体工事では社員が足りないからと。臨時の現場監督として赴任させられた。
このときのラジオアンテナ塔解体を一ケ月で手際よく終了させ、400万円の黒字を計上した。僕はマイカーを現場へ行くのに使った。工事部長の田中さんが車の使用手当を出すと言っていたが支給されて見ると約束の半額しかなかった。
これに味をしめた田中さんは僕を武雄バイパスの現場に社員として派遣した。自分には高架橋の現場監督は荷が重いから常用人夫に戻してくれと頼んだが、社員が足りないので、どうしても臨時の現場監督で行ってくれと懇願され断りきれなくて頷いた。

武雄ではまだ飯場ができてない。当分は当条のアジトから通うことにした。鳥栖からよりも在所から行った方が近い。と言っても片道1時間半はかかる。この工事は悲惨を極めた。鉄筋屋も人夫も人数が全然足りない。20人役の所を10人でやったり。ひどい時は5人でやったりしていたので、

「人数ば早う揃えろ」
元請けからは毎日雷が落ちた。しかし、どこの建設業者も九州自動車道関連の工事を山ほど抱えており、作業員を他に回す余裕などまったくない状態が続いていた。家を朝の5時には出て帰ってくるのは夜の10時過ぎという連日の突貫工事である。ある朝、目眩がして起き上がれない。だがしばらすると起き上がれた。それでもまだフラフラするので半日休みをもらって病院にいった。自宅から2キロ離れた大場脳神経外科である。院長は筑後地方では手練の脳外科医として知られている。この院長の診察を受けたが何の異常も見られなかった。疲れだろうということでまた仕事に戻った
2ケ月ほどすると武雄の現場にも正社員が赴任してきたので、やっと難儀な役から解放された。それでまた鳥栖の現場で常用の人夫に戻れた。
昭和59年・11月、(34歳)
移動式クレーンの免許を取得すると決意し、当条のアジトから久留米の建設機械専門学校に通うことにした。4トントラックに3トン加重のユニッククレーンを操作する機会が多いので、資格を取っておいた方が良いと思った。というよりも無資格でクレーンを操作するのが怖くなった。
学校は当条から近い。ペコちゃん経営の喫茶店「サンラビ」の目の前にある。授業料が12万円必要だったが、これは田中工事部長に訳を話して佐多建設から借りることにした。そう言うことなら費用は全額会社が負担して良いと部長は言ったが、借りを作るのが嫌で断った。毎月2万円ずつ給料から天引きしてもらうことにした。
2週間学校に通って移動式クレーンの免許を取得した。僕は土曜日の午後4時ごろ鳥栖の現場へ顔を出した。ちょうど田中工事部長がいて、
「おい、今から湯布院にいくぞ、俺の車を運転してくれ。これは仕事ぞ。日当も払う」
「えー、なしてですか、自分で運転すればよかじゃなかですか?」
そこへ現場監督の中村さんがやってきた。
「それが部長は免停中じゃけん、山下兄ちゃん、運転ばしてくれや、今、湯布院の現場で緊急事態が起きとる」
なんか急ぎの用があるらしいので断るわけにもいかず、田中工事部長の自家用車クレスタの運転席に座ってハンドルを握った。
湯布院へは2時間近くもかかったろうか。着いた時はもう夜の8時だった。その日は宿舎で飯を食って温泉に入って寝た。あくる日は日曜日である。お目付け役の道路公団の職員は自宅に戻って誰もいなかった。そんな中、元請けの墨出しの間違いが発覚した。橋脚のフーチングという下駄の部分に鉄筋を組んで見ると型枠に収まらないという珍事が出来した。
コンクリートを打ち込んで、脚本体を上に伸ばすため型枠を組んだら型枠から鉄筋がはみ出すので、はみ出た鉄筋を正規の場所に移植するという作業を隠密裏にやった。これはあきらかに違法行為である。僕は気になって帰りの車の中で、
「あげな事ばしてよかとでしょうかね」
「ああ、ほんな事なあ、しかし、元請けがやれと言うんじゃけん、俺ら下請は従うしかなか」
小さな手抜き工事は工事現場のあちこちで行われていたので、世間とはそうしたもんかと思った。
おい、山下兄ちゃん、12月から沖縄の現場に行ってくれんか日当は弾むぞ」
「えー、沖縄、そらまた遠いですね。嫌になっても簡単に帰って来られんけん、ヤッパ止めときます」
「そげん言わんな、行ってくれんか食いっ放しで7000円出すわあ」
…沖縄は興味があるけど。しかし、なあ、この人の言う事はあてにならんもんなあ。金を出すと言って、いざ支払いの段になると約束の金額より安く払う。金には汚い男だという噂を耳にしていた。孫請けの大工や鉄筋屋、人夫も過去に泣かされた者は多いという。が、しかし、断りきれずに首を縦に振った。この頷きが後々僕の人生に大きな影響を与える事になる。

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