20代
昭和46年1月15日成人式、 3年4組の同級生と。 場所は中広川小学校だったと思うが、広川中学校だったかもしれない。 昭和46年1月10日、 自衛隊を1日で辞めて当条に戻った。成人式に出るため母に金をせびった。スーツとシャツを久留米のフタタで買った。確か15000円の背広だったと思う。大学生の間ではアイビーが流行っていたが、工員などはラッパズポンが主流だった。田舎者の象徴であるトンガリ靴を履いていたので、店員はそれを見てjun系を勧めた。 |
トヨタを辞めて自衛隊に入ったが1日で辞めて成人式の直前当条に戻った。 自衛隊を辞めてから久留米のシャッター屋で働いた。 2tトラック三菱キャンターにエンジンウェルダー(電気溶接機)と シャッターの部材を積んで、筑後地方一円をシャッターの取り 付けをして回る。高良大社へ初詣のスナップ。 新年会で久留米の高良神社へ初詣。 |
シャッター屋にいる時脚立から落ちて肋骨にヒビが入り入院した時のスナップ。 トヨタを辞めて実家に戻ると、当条の園田自転車屋でヨレヨレの ホンダCS90を5000円で買った。 フレームとタンクを赤く再塗装しエンジンオイルを変えてキャブレターの調整をして蘇らせた。 赤いバイクはやがて当時高校生だった弟の栄が乗りまわすようになる。 赤バイでシャッター屋に通勤していたが、雨の日は合羽を着て通勤してくる自分に同情して、 会社の部長が8万円で軽があるけど、購入するなら会社で手形を切ってやる。 8000円づつ10回で給料から天引きするというので、手に入れた。 ドアーには爆弾を抱えたフェリックスキャットをプラカラーで手描きした。 |
<昭和46年、当条青年団活動>
左、当条公民館前
青年団ピクニック呼子波戸岬へ
青年団は農家の人がほとんどで、商家や勤め人は ほとんどいない。しかし、青年団長は年代別に順送 りされる 習わし。戸数200の当条には10名の同級生がいた。 小学生になると毎月1回友達の家に集まって昼間は遊び、 夕食を食べるとテレビを見たり泥棒ごっこをして遊んだ。 毎月子供貯金をし、15歳になると英彦山神社へ詣でる。 これを「英彦講」と言う。 青年団を自分たちの年代でやらねばならなくなった。仲間の内 2名は青年団に参加していたが他の者は不参加である。 このままでは自分たちの代で青年団が潰れる。それで、英彦講 の席でみんなで話し合い青年団に入る事にした。 問題は誰が団長になるかである。みな厭がるのでクジ引とした。 しかし、クジを引いた当人が絶対厭だと言う。それで、自分が手 を挙げて団長になった。 |
<町民体育大会> 町全体の団長会議で部落対抗の応援合戦をやる事になった。 青年団の前身は「若衆宿」である。戦国時代であればハラマキや長刀で 武装して村を守らねばならない。戦があり、領主から人数を出せと言わ れたら、若者が足軽雑兵として従軍するのである。そういう歴史の背景 があるので村人は青年団を蔑にできない。 村一番の行事、「ヨド」と呼ばれる秋の収穫祭で、祭文語り(さいもんかたり・浪曲師)を 久留米の興行師に依頼し興行を打つのである。この日ばかりは団長は 貸元となり村と縁のある商店や企業、個人からお花という名の御祝儀が贈られる。 村落対抗の運動会や盆踊りといった行事もあり、勤め人には厳しい側面があり若者らが敬遠していた。 |
ソフトボール大会
八女郡立花町へみかん狩りに行った時のスナップ。
トヨタを辞めて3年4組のクラス会以来、坂田悦雄君らのグループ と仲好くなった。 坂田君は、筑後地方屈指の進学校である八女工高を卒業後、国立大学の医学部を目指して浪人中であった。 そんな彼らのグループと遊ぶようになり、マージャンを教えてもらい良く卓を囲んだ。 マージャン仲間に筑後市のペーさん(北川)がいた。彼は八女工高で坂田君らと知り合い、 そのつながりで僕とも知り合った。そのペーさんの紹介でパーフェクトセンターに就職した。 その頃九州スズキからフロンテクーペを購入。 |
洗車場は儲からないので、大森電気に従業員込みで売られた。 パーフェクトセンターの社長、本業は博多帯の担ぎ屋である。 呉服屋になるとかっこいい車に乗れるので、 パーフェクトセンターを辞め博多帯の担ぎ屋になった。 |
博多帯の他にも呉服も扱っていたので、まず、最初は湯のし屋と仕立屋回りの雑用から
始めた。しばらくすると自分の車に商品を積んで飛び込みで売って来いと言われた。帯を初日から売った。
慣れてくると売り上げもあがって、営業車としてクラウンのハードトップが与えられた。
友人のカップルと一緒に萩へドライブ旅行に行った。車は呉服屋で営業車を個人的にも利用で来たので
クラウンに4人乗りした。梅雨時で当日は大雨だった。
呉服屋韓国旅行↑1ドル=360円
呉服屋台湾旅行↓
当条公民館で、友達の結婚披露宴
青年団で知り合った同士が結婚
久留米さわ荘会館で妹の結婚披露宴
↑中学の同窓生、蒲池君がサンラビという喫茶店をやっていた。 呉服屋を辞めて担ぎ屋となり、この店に入り浸って、 競艇やマージャンに興じていた頃糸島へ海水浴。 呉服屋は経営難となり給料の支払いが滞るようになったので、辞めた。 店主が厚生年金と失業保険の支払いをしていないので、福利厚生の恩恵は一切無し。 しかし、8年間厚生年金の保険料は給料から天引きされていた。 呉服屋を辞めてブラブラしていたら本家の従兄・昌一が勤めていた三和設備を辞めて、 独立した。彼は設計士であったが、独立したばかりで下請け業者に出す余裕もなく、 中古の軽トラと旋盤を買って一人で工事をやっていた。 そんな折、僕に工事を手伝えというので応じて配管屋になった。 しかし、支払いは6ケ月の手形ばかり。 当然、昌一は僕に給料を払ってくれないばかりか、子守までさせられていた。 昌一の子供たち 左・良子 右・フミヒロ |
昌一は給料を払ってくれない。借金取りの電話はジャンジャン鳴る。 駆け落ちしたお針子には婚約者がいて、すでにクギ茶が入っていた。 仮結納が済んでいた女性と長崎に逃げたわけである。 そういう背景があるので、相手の男性が激怒して僕と女性を捜しいるという。 スピード違反の反則金も滞納していたので、 警察から払わないと留置所に入れると電話があった。 母は息子は言う事を聞かないので警察で掴まえてくれると 助かると言ったら、それきり罰金徴収は沙汰止みとなった。 他に女性関係の乱れもあり当条に居づらくなって故郷から逐電した。 ちり紙交換と西瓜売りを経て 博多駅裏の人夫出しに転がり込んで日雇いの土木作業員になった。 小倉の九州自動車道の飯場に入った。 |
小倉の現場で半年ほど働いて、担ぎ屋の借金40万円を返した。 この頃、中学で仲良しだったヨシアキが、健康マット売りになっていて、小倉の飯場までセールスにきた。買わされたり仕事引き込まれたりして往生した。 その他国金の借金は、父がわずかな土地を手放して処理してくれた。 借金が片付いたので故郷へ戻り、久留米の建設会社に就職した。 社員旅行で別府へ行った時のスナップ。 |
戻る 次へ