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ついこの前まで、小学の頃。昭和生30年代までは、村人が自前でやっていた家の取り壊しも、近年は業者に頼むケースがほとんだだ。解体費用は15万円ほどで済んだ。田舎だからこれぐらいで済んだが都会ならもっと高額の解体費用がかかるだろう。

家を建てることに決めてから生活費の見直しにかかった。これまで7万円ずつ出し合っていたのを止めて、私の年金一本で生活費の全部を賄うことにきめたのである。物価スライド制で、当初の月額9万円から10万円にアップした年金で暮らすのだ。これまで14万円だったものが10万円になるのだから、やっていけるかどうか不安であったが、1000万円を出した穴埋めに貯蓄の充填を図らねばならない。これからは典子の給与は全て貯蓄の回すことにした。

典子の給与がいったいいくらなのか正確には教えてくれないが。年収で400万円は下らないだろう。とすれば年間300万円の貯蓄は可能と言える。典子が今の勤めを3年頑張れば900万円の貯金ができる。これで建築費用に当てた1000万円の90パーセントは穴埋めできる。後3年間は腰痛の治療をしながら勤めてもらいたい。

留次郎が典子の腰痛を心配してしきりに気功を進めた。なんでも留次郎のアパートの近くに気功の治療院があって、義妹の美知子さんが交通事故で腰を痛めたとき、通って治してもらったからぜひ、通ったらどうかい仕切りに言うのである。あまり熱心に勧めるので治療院を尋ねてしばらく通うことにした。片道2時間を私の運転で週に2回のペースで通院するようになった。

1994年9月1日がミニハウスの上棟式である。この年は連日カンカン照りの猛暑である。そんな暑い最中、村の同級生が新築祝いに清酒3本を持ってきてくれた。子供の頃から続いている。英彦山講(ひここ)伊勢講(いせこ)の付き合いも滞り。申し訳ない気持ちである。

とにかく農家で無い者が農村で暮らすというのは村のしきたりに従わねばならず実にやっかいである。神社掃除、納骨堂掃除、掘りさらい、道路掃除、クリギリ(道路脇の樹木の枝払い)その他に冠婚葬祭の手伝い、隣組の用事と付き合いのオンパレードである。これらの因習に悲鳴を上げて出て行く若者も多い。ましてや身体に障害を持つ身になれば一人前の出役が出来ず厄介者なのだ。その辺をどうクリアーしていくかが問題である。

上棟式の前にまず、隣にある本家へ挨拶にいった。

「おまえは出方はどげんすっとか。出不足(でぶそくば払うだけじゃいかんぞ」

うーん、痛いところを突かれた。障害があって出来ないものは仕方ないではないかと言おうとしたが、仕方ないじゃあすまんぞ、と言われそうで言葉を飲み込んだ。本家の跡取りは私より5つ上の正一なのだが、カビの生えた村の付き合いという価値観を後生大事に生きている。出方に出られない者はお金を払うしきたりだ。しかし近年は、金を払って苦役から逃れようとする者が増えているので、そのけん制をされたというわけだ。村に残って自営や農業をしている者は良いが勤めに出ている人はそうそう出方に出ることなどできない。かと言って人々の因習は簡単には変わらない。本家の正一は、私とは従兄弟になるのだが、自営で水道工事業を営んでいるのでしきたりにはうるさい。

親戚筋から言われたことに少なからずショックを受けた。この問題を考えるとなんとも重い気持ちにさせられる。これが自分の生まれた故郷だからと諦めるほかなかった。後の事は引っ越してからのことだと気持ちを切り替えた。掘りさらいなどの出方ができないからと言って、まさか捕って食うとまでは言われはすまい。全てを諦め、頭を垂れて廃人どうようの暮らしに甘んじるか。それとも苦労を覚悟で己を貫くかあるまい。そうこう悩んでいるうちに工事は進み10月には小さな家が完成した。

家は完成したが、事情が変わって、せっかく建てたミニハウスだが住まずにいる。空き家にしておくわけにもいかず弟の留次郎が仕事用の事務所として使っている。私たちはUR団地住まいである。両親の介護も終え無事に見取ったということもあるのだが。農村というのは交通の便、因習、買い物、医療とどれをとっても障害者にとっては難儀な事なのだ。


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