昭和39年4月

広川中学校に上がった。全部で372人の新入生が集まり46人ずつ8クラスに分けられた。1年4組で出席番号22番である。勉強はそっちのけで飛行機に入れ込んだ。ジェット機ではなく、第二次世界大戦で活躍したレシプロ機がたまらなく好きになってしまった。プロペラのネジレ具合がなんとも言えず、じんじんと心の中に響いてくるのだった。少年サンデーや少年マガジンといった子供向けの週刊誌でゼロ戦の開発秘話といった戦記物を読んで影響されたのである。

中一の夏休みに入ると腹痛を覚え牟礼の石田医院にかかった。2日間処方された粉薬を飲んでいたが3日目になっても腹痛が治まらない。さすがに両親は心配になりオート三輪で一条町赤坂にある国立病院へ僕を連れて行った。診察を受けると盲腸が悪化し、腹膜炎を起こしていると言われ、両親は驚いた。

「どうしてもっと早く、連れて来んかったとね」

「石橋さんにかかっとりましたばってん。腹のせいとるじゃろち、言われましたもん」

「あ、ミノル先生ね、もう歳やけん腹痛と盲腸の区別がつきなさらんもんねえ」

「……」

午後からさっそく手術が行われ窮地を脱した。初めての手術、入院である。笑うと腹の傷が痛んだ。ガスが出るまで食事抜きだと言われ空腹でたまらなかった。3日目にやっとブーと小さな音がした。

「母ちゃん、ブーの出たばい」

「そりゃあよかった、看護婦さんに言わじゃこて」

それから傷は順調に回復し、抜糸も済んで退院したが、無理すると傷口が裂けると言われ怖かった。やがて通院と養生で夏休みも終わった。秋になると家にもようやくテレビがやってきた。画面には布製のカバーが掛けられていた。

どこの家にもテレビがあったが我が家にはまだ無かった。肩身の狭い思いをしていたので、歳子も栄も小躍りしだ。これでようやく学校に行ってもみんなの話題について行けるようになったのである。しかし、高度成長が加速してくると稼業の菜種油絞りが立ち行かなくなってきた。

「もう油屋はボクぞ、タクシーに乗るけん」

父は2種免許を取るために、筑後運転免許試験場へ通い始めた。普通1種は持っていたので、学科は免除となり、実地だけ受かれば良い。オート三輪には毎日乗っていた。実技試験など簡単に受かると踏んでいたが甘かった。

「えー糞、今日もボクじゃった」

失敗する度にボクボクと言っていたが語源はわからない。

連日嘆いて帰る父親に家族中が怯える日がしばらく続き、

「今日、落てたらもう行かん」

不機嫌な顔で出て行った日の午後、

「おい、おいちゃあ、おい、通ったぜ」

えびす顔でぺったら帽を脱ぎながら、母に報告した。

「よかったじゃんの」

狭い家の中に安堵の空気が広がった。

唐芋顔

当条から広川中学校のある中広川までの道のりは3キロほどだ。2年に進級したら自転車のペダルも軽くなった。理由は二つある。一つは唐芋のような顔をしたガキ大将のヨシアキと仲良くなれた事。もう一つは美小女の杉田聖子と席が隣同士なった事である。勉強が全然出来ない。喧嘩もからきしだけど、先生にたてついてばかりいた。叱られない日は無いという状態である。それでもメゲずに、登校してくる姿に聖子が興味を示し、時々口をきくようになった。それだけの事だが心がスキップした。

勉強は小学5年で分数につまずいてから放棄した。愛読書はビッグコミック、航空ファン、航空情報、丸である。コミックと飛行機の本を読み、聖子の顔が見られるだけで幸せだった。この頃から僕は広川中で飛行機好きの変人として知られるようになった。2年の担任は猫にそっくりな顔をしているので生徒からはネコちゃんと呼ばれていた。

ちょうどこのころグループサウンズが人気となりエレキギターが流行っていた。日本語で言えば電気三味線である。三味線はネコの皮で作る。担任の事を三味線だと言い出すと、ネコちゃんから愛称が三味線になった。その事が気に入らなかったのかどうかは知らないが、三味線からは良く殴れた。秋の修学旅行で奈良に行った。生徒が旅館の窓から捨てたリンゴが通行人に当たったと学校に苦情が来た。厳しい犯人探しが始まった。

なんとなくリンゴの食いカスを窓から捨てたような気がしたので正直に申し出た。すると三味線が烈火のごとく怒った。ゲンコツで顔面を殴り、飛び膝蹴りまで浴びせた。鼻血を出すのを見て他の先生がようやく止めに入った。

イサムとカズナリと自分の3人で、ある土曜日の午後、自転車にまたがって当条の公民館前でたむろしていた。すると突然、

「パンパンパン」

北山の方から銃声が聞こえてきた。空からは

「ブーン」

と爆音がする。上を見ると深緑色の小型機が低く飛んでいた。当条の上空をゆっくりと回りながらやがて向こうの丘に着陸し、再び舞い上がり旋回するという運動を繰り返していた。

「お、自衛隊の演習ばい、俺は今から見に行くけん」

ほんなもんの飛行機が見たい一心で自転車に飛び乗った。機関銃の音がする方向を目指して懸命にペダルを踏んだ。

「おい、待ってくれ」

イサムとカズナリも後を追ってきた。北へ3キロほど離れた久留米の荒木町という所に高良台という荒野があって自衛隊の演習場になっている。後にこの荒木町という所から歌手の松田聖子が誕生する。赤土の丘には200メートールほどの滑走路があってオリーブドライブに塗られた1機のセスナL19が止まっていた。近くに寄ると危ないから離れろと叱られた。やがてプロペラがゴーッとものすごい回天音を出した。尾翼の近くにいたのだが、風圧がすごくて立っていられなくなって、慌てて離れた。

周囲には迷彩服に小枝や草を付けて鉄兜を被った自衛隊員が機関銃を構え、

「タタタタタ」

と、やっているのを見て3人は、

「あはははは」

まるで実感がなくて子供の遊び然としているのだ。隊員たちもまるでヤル気が無い。連絡機が飛び立つと機関銃を放り出して寝そべってしまった。一人の隊員は茂みの中でヤガヤガ饅頭を見つけてムシャムシャとやり始めた。ヤガヤガ饅頭とは西洋のブルーベリーの事だ。当条に生えているのは正露丸ぐらいの紫色の実。ガヤガヤと騒がしげに付いている。甘酸っぱい味がして食べられるのだ。この辺りの野山にはいくらでも生えている。若くて男前の隊員が胸のポケットから写真を取り出して

「おい、兄ちゃん、よかとば見せちゃろ」

少年たちの前で女の裸の写真を広げた。3人ともドキドキである。

「もうおまいどんな握り飯ば食いよるか」

「うん、食いよるばい」

僕は本当に知らなかったけど、イサムとカズナリはニヤニヤ笑っていた。

「なんか知らんとか、バナナばむいてシゴクと気持ちんよかとぞ」

昭和40年。3年に進級した。試験があると出席番号と名前だけを書いて答えは白紙でした。これから先は高校ぐらい出とらんと嫁御の来てもなかし、就職も太か会社に行かれんぞ。高校だけは行っとかんね。というのが世間の雰囲気で、母も高校に行けと言ってくれた。が、僕は首を横に振った。

担任からどこの高校へ行きたいかと尋ねられた。進学しませんとキッパリ言った。かと言って就職したい企業も無い。というより知らない。まだ子供なのだ。

福岡ボデーで塗装工を募集していると先生に言われた。良く考えもしないで、そこに決めた。年が明けて2月になると先生と一緒に八女の職安に行った。労務担当の石井という初老の男から簡単な試験を受けた。分数の計算ができないので、モタモタしていると彼は答えを教えてくれた。試験が終わり学校に戻ると、3年4組の後ろの黒板には「山下真君就職おめでとう」の文字が赤と白のチョークで早々と書かれた。そして昭和41年3月、なんとか広川中学校を卒業した。卒業式が終わった3月21日、3年4組の同級生男女合わせて13人が集まって、免状祝をすることになり僕にもお座敷が掛かった。

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転職の始まり

就職先は福岡市にあるトラックの荷台を製造する会社である。勤務地は福岡のはずだったが、入社後3日で同期入社の10名全員東京工場へ転勤を命じられた。東京と言ってもタヌキが出そうな町田の畑の中である。だがホームシックにかかって半年で当条に戻った。父に怒られると思ったが何も言われなかった。

今度は久留米の職安に行って就職先を探した。久留米の刈原にある鹿田ボデーに面接に行くと即採用された。自動車の板金塗装をする小さな町工場である。塗装工見習いで月給8000円。しばらくは弁当持ってバス通勤したが、すぐに原付免許を取った。村の野田自転車屋でスズキスポーツ50を月賦で買って通勤した。

5ケ月ほど塗装工の見習いをしていると、東京へ一緒に行った八女郡立花町出身の浜がホンダCL90に乗って当条に現れた。

当時ホンダのバイクは若者のあこがれだった。CBが最高位に君臨し、誰もが胸を焦がした。しかし、20万円近い値段は田舎の青年には高根の花である。そして昭和39年にホンダからスポーティーで真っ赤なCS90が8万2千円で発売された。

その後モトクロス用のCL90が発売され若者たちの間で人気を博した。悪路用のバイクらしい、高いハンドルにバーの入った特徴的なCL90で現れたのには衝撃を受けた。僕のスズキスポーツ50がみすぼらしく思えた。なんせホンダのバイクは4サイクルエンジンなのだ。それもレーシングカーで使うOHCである。その点、スズキS50は2サイクルで燃料は混合油だ。ガソリン18リッターにエンジンオイルを1リットルの割合で混ぜて作る。

混合油はガソリンスタンドでも売っていたが自分でも作った。2サイクルエンジンは構造が簡単だけど無理するとエンジンが焼きついた。飛ばし過ぎたり、坂道が長いとエンジンがプスプスと止まるのである。しばらくその場で休憩してからエンジンを冷やしてまた走り出すといった具合である。エンジンを高速回転させるには4サイクルエンジンの方が断然良い。しかし、小さいエンジンで4サイクルを作れる技術がまだなく、ホンダがその先陣を切ったというわけである。

「うわあ、ハマちゃん、どげんしたとね。CLやら乗って」

「うん、あれから俺も福岡ボディーば、スグに辞めた。今は久留米商業の前にある大坪自動車で板金屋ば、しよるたい」

「そうね、久留米商業と言えば、諏訪野町やなかね。俺の職場とは近くやねえ。俺は刈原の鹿内ボデーたい」

「で、山下は給料いくらね」

「うん、8千円」

「えー、ほんなこつか、俺は1万円ぞ」

「そらあ、よかねえ」

「おお、今んとこば辞めてうちに来んか、工場長に頼んでやるけん」

浜がそう言うので鹿田ボデーも半年で辞め、大坪自動車でガンガン屋の弟子になった。

カズナリも中学を出ると久留米の電線を作る会社に就職した。が1ケ月で辞めて久留米の飲み屋街へ出入りしていた。そしてほどなく愛知県のトヨタ自動車へ就職していった。同じ頃、三つ歳上の従兄弟の昌光も、ダンボール会社を半年で辞めて、トヨタ自動車に就職していった。

子供たちもだんだん成長し、妹の歳子は15歳、弟の栄も12歳となった。父は久留米から古家を購入して解体し、木材をオート三輪で当条に運び始めた。家の前に桃畑
があり、隅に三輪車用の車庫があった。そこを潰して古材木を利用して二階建てを建て始めた。大工は3軒隣のは、橋爪さんである。これまで住んでいた家は放置されたので、夜具を持ち込んで自分専用の部屋にした。

愛知へ(17歳)

昭和42年12月30日

昌光とカズナリが正月休みで帰省してきた。二人ともジャンパーではなくおしゃれな洋服を着ていたので驚いた。31日の夜は本家である昌光の家に集まって紅白歌合戦を見た。

「昌光ちゃん、そりゃあ、なんちゅう、着物ね」

「おお、こりか。こりがブレザーちゅうとぞ」

「ふーん、高かとやろね」

「1万円ぞ」

自分の一ヶ月分の給料ではないか。そんなに高い服を着ている昌光がまばゆかった。そしてカズナリは発売されたばかりのカローラで当条に現れた。

「プラス100ccの余裕」

というテレビコマーシャルが当条茶の間にも流れていた。日産自動車の1000cc車サニーが発売され、その対抗馬としてトヨタからカローラが発売されたのである。誰もが1000ccのエンジンを搭載していると思っていたが、フタを開けてみると1100ccだったこともあって世間の注目を浴びていた。

やっとスズキの50ccバイクを手に入れた自分には乗用車など夢のまた夢である。吃驚したなんてもんじゃなかった。と言ってもこの車はカズナリの友人の持ち物だ。愛知県出身の同僚が所有するカローラだったのである。この同僚が九州へは行ったことがないというのでカズナリの帰省に付いてきた。鹿児島へドライブ旅行に行くというので同行した。桜島の煙をフェリーの上から眺めていると、爆発したら怖いだろうなあ。と。そう思ってしまう。愛知の青年が18歳で普通自動車の免許を取得し、すでに乗用車まで持っていることに衝撃を受けた。

昭和30年後半から40年代にかけて日本もモータリーゼーションへと突入し、各自動車メーカーが続々と新型車を開発し、量産体制を敷いていた。どの企業も慢性的な労働力不足で工員の確保にやっきとなっていた。田舎の村役場、職業安定所は申すに及ばず、自衛隊退職者、街にたむろする若者、従業員の縁故者にまでボッシューの触手は伸びていた。

だいたいどこの会社にも人事部採用課というのがあって、帰省する工員らに親類縁者を勧誘させた。現場の責任者である、工長・組長から因果を含められている岩夫もカズナリも僕に向かって甘い息を吹きかけた。

「ガンガン屋は辞めておまいもトヨタにこんか。給料は3万円な貰うぞ」

「ほ、ほんなこつか!」

日給月給1万円の田舎者にとって3万円は魅力的だった。そのころのイサムは久留米の工業高校へ通っていたが、ダボダボのズボンをはいて鰐皮のベルトを締めるようになっていた。中学を出ると当条の幼馴染らもそれぞれに新しい世界へと羽ばたいていてヒココ以外で顔を会わせる事も無くなっていた。

ヒココとは英彦山講の事である。在所々の悪童らが毎月一回友達の家に米1合を持ち寄り、ご飯を炊いてもらい会食する。当条に同級生は10人いる。年に1度は宿の順番が回ってくる。ヒココの時は普段食べられないご馳走が振舞われる。といっても田舎の事ゆえ、まぜご飯に汁の物、煮魚が付く程度だが、それでも内陸部の農村で魚が付くのは、大変なご馳走と言わねばならない。ヒココは小学1年生から始まり、毎月子供貯金をしている。一五歳になると山伏修験道で有名な福岡県田川郡添田町の彦山権現へ皆でお参りする。ヒココが終われば、次はイセコになる。お伊勢参りの講で、42歳になってから詣でる

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トヨタ(17歳)

正月休みが明けても大坪自動車へ行くのが嫌になってズル休みを続けた。しばらく実家でゴロゴロしていたがやがて八女職業安定所を尋ねた。

「あのう。トヨタ自動車のボッシューはまだあっとりますか」

「ええ。今度は1月15日に採用試験がありますよ。どげんせらっしゃるですか。受けらっしゃるなら履歴書ば持って15日午前9時にここの2階へ来てください」

「はい、わかりました。ほんなら15日に来ますけん。どうもすんまっしぇん」

帰りしなに福島の岩田屋の前でバイクを止め文房具コーナーで履歴書を買った。そして土橋の交差点にある、かぶと饅頭屋で黒餡と白餡を買った。関東では今川焼きだという。これは少年サンデーのおそ松君で知った。

試験は算数と国語である。今回も分数ができなかった。通分が理解できないのである。入社試験と言っても形式的なものだ。従業員の縁故者なので試験の点数は悪くても採用は決まったも同然。というよりも1時間後には合格と告げられて入社説明会へと進んだ。

原型課検査

昭和43年3月

採用課の指示通り蒲団を国鉄のチッキで大林清風寮に送った。そして昌光とカズナリの母親から故郷のお土産を持たされて国鉄鳥栖駅から急行列車雲仙・西海に乗り込んだ。当条から、ヒロトシ、ヨシオ、サカエ、トシハル、フミタカ、イムオが見送りにきた。列車が出るときホームにならんで万歳をしてくれた。僕の瞼はうるうるになった。ホームの人影がアズキのように小さくなると涙がボロボロとこぼれた。

荷物の送り先の本社寮に着くとカズナリが早速やってきた。田舎にいるときはそうでもないがこんなときは頼もしく思える。カズナリの母から預かってきたお土産を渡した。

「チェッ、こげなんもんば」

舌打ちしながらも母親の愛情を感じている様子が伺えた。その晩昌光の下宿先を訪ねた。彼は寮を出て街のクリーニング屋の二階にある6畳間を間借りしていた。ホンダの軽自動車N360を所有し通勤しているという。

勤務先は元町工場の第二生産技術部原型課検査という部署である。何やら難しそうな名前だ。中学出に勤まりそうか不安であった。これまでは同じ工員でも、塗装や板金と言った作業だったが、今度は勝手が違う。現場では工長が最高位で、組長、班長、工員で構成されていた。

自動車の車体をプレスする原型を作るセクションなのだ。実に細かな作業をせねばならない。0.05ミリ単位で治具の原型になるチェッカーモデルの測定である。プレス用の金型を作るための原型になるマスターモデルが実物大に樹脂で作られる。この原型から石膏で金型と冶具用の複製を作る。この石膏の型の表面を機械がなぞっていく。金型削りの機械には石膏の原型の表面に」沿って動くドリルが付いていて、城の石垣のような鉄の塊を削ってゆくのである。たとえば、人が右手で物の表面をなぞると左手は右手の動きを忠実に再現する。

この金型作業は原型課ではなく、工機課といって職場の隣にあった。トイレ休憩のついでに覗くと、門型の大きな機械がゴーゴーと音を立てていた。オイルの匂いが漂う現場では安全靴をはいた工員がしきりにボタンをいらっている。

フェンダーの石膏が台にくくりつけられていた。その石膏めがけてドリルの歯が下りてくる。刃先はバナナのように丸くなっていてフェンダーの形状にそって少しづつなぞってゆく。すると反対方向に設置された鉄の塊がハガネのドリルによって忠実に削られる。

 休憩の時プレスの金型が出来上がる様子を熱心に見入った。

「フムフム。こうやってできるとやねえ。ドイツ製やというが、うまい機械を考えたのう。さすがばい」

入社したころ、ちょうどコロナマークUが生産の準備を終えラインに乗ろうとしていた。ライバル日産自動車のブルーバードと、熾烈なシェアー争いの真っ只中にあっため、販売の最前線では新型車の発表が待たれていた。

国内の自動車メーカーはどのクラスも新型車の開発にしのぎを削っていて原型課でも忙しく残業をしていた。毎月50時間はざらで

時には100時間に及ぶこともあった。

昼飯代がない

ある日曜日の昼時。カズナリが大林清風寮へやってきた。

「おい。銭ば貸してくれんか。Aパンで負けて一銭も持たんけん。昼飯も食われん。バス代もなかけん。歩いてきた」

カズナリが勤務するエンジン専門工場まではバスに乗っても小一時間はかかった。日曜日の昼は寮の食堂は休みだ。寮生は外食するかインスタントラーメンでも食うしかない。

「おう、俺も同じたい。Aパンでひねられた。ラーメンのひとつもなかぞ」

水を飲んで腹を膨らませて公園に二人で寝そべっていた。が腹が減って腹が減って辛抱たまらんようになった。

「何か質草になるとは持たんか!」

「そげなもんはなか。ブレザーも背広も持たんし、時計もなか」

「あ、カッターシャツの1枚ある」

母が持たしてくれた白いカッターシャツがあることを思い出した。急いで寮に戻ってから、寮の門にある質屋のガラス戸を開けた。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

「これでいくらか貸してくれんですか」

そっとシャツを出すと、眼鏡をかけた初老の店主は苦笑しながら、

「これじゃあ。質草にならんで」

と連れない返事。すかさずカズナリがポケットからゴソゴソと物を取り出した。

「おっちゃん。これば置いていくけん。2000円貸してください。今度の給料で絶対出しに来ますけん。昼飯も食うてないとですよ」

しきりに頭を下げる若者らに、

「ほういうことなら。彼方たち自工さんの人だらあで。免許証はいらんで。必ず出してな」

そう言って千円札を2枚渡してくれた。二人は大急ぎで商店街のパン屋に駆け込みアンパンを2個ずつほおばると敵討ちだと意気込んでAパンと書かれた店に入った。パチンコの玉を購入すると灰皿にタバコの吸殻が多い台に座った。こういう台は人が粘った証拠だから良く入ると聞いたことがあった。

ワクワクしながらハンドルで玉を弾いたがチューリップにはなかなか入らない。2〜3個入った切り後が続かない。二人とも30分で返り討ちされた。質屋から出て1時間後のことである。変な脱力感に襲われながらトボトボと互いの寮を目指して歩いた。それからカズナリは突然会社を辞めて当条へ帰ってしまった。

409A

従兄弟の昌光は同じ原型課の石膏係りだ。社員食堂で席を共にした。うどんと飯を注文した。食後にコーヒー牛乳と、うぐいすパンを食べながら此度の事件を心配してか

「俺と一緒に住まんか」

と持ちかけてきた。寮の同室には村上という2つ年上の東北出身者がいる。彼は組み立てラインで働いているから三交代勤務だ。原型課は間接部門だから日勤のみである。互いの勤務が違うと生活リズムがかみ合わない。

「うん、そげんして。家賃は半分払うけん」

気心も知れている従兄弟と暮らす方が赤の他人より気楽だ。昌光の軽自動車に蒲団一式と紙袋を3つ提げて駅裏にあるクリーニング屋の二階に転がり込んだ。朝6時ごろ起きて身づくろいをして近くの松屋食堂で朝定食を食べ、岩夫の車で出勤する。昼は会社の社員食堂でうどんと飯を食う。夕方も松屋で定食を食べる。風呂は近くの銭湯だ。

昭和45年桜花の候、

原型課は車内コード409Aの話題で持ちきりになった。断片的にスタイリングのよさは感じ取っていたものの、その全体像はつまびらかではなかった。しかしハイライト確認によってとうとう神秘のベールがはがされたのである。マスターモデルの部品のひとつひとつが組み合わされて車の全体像が完成する。するとこのモデルに黒い塗料を塗って全体にライトが当てられる。

こうすることで面や線の流れに不具合がないかをチェックしてゆく。特にコークボトラインと呼ばれるベルトラインの流れは入念にチェックされた。この作業の時には技術部からデザイナーが出張ってきて一般工員は立ち入り禁止となる。しかし僕はこの様子を垣間見てその斬新なスタイリングに興奮を覚えた。

それはまさにプロトタイプのレーシングカーそのものだった。ウェッジタイプのノーズは異様に低い。これから獲物に飛び掛る狼を彷彿とさせた。フェンダーからクオーターにかけてはコカコーラのビンの曲線に似ていて女性のまろやかな腰のラインを思わせた。

409Aの斬新さに接した面々はその興奮を抑えることができずに、噂がアッという間に広まってゆく。この409Aこそ初代のセリカである。工場全体が新型車の生産準備で目の回るような忙しさの中、季節は紫陽花の候へと移ろう頃、突然体がだるくなり、顔が黄色くなってきた。トヨタ病院を受診すると急性肝炎と診断された。故郷に帰って久留米の病院で治療した。

40日ほどの入院で肝炎も治ったので、当条の実家に戻った。故郷に帰ると中学卒業の時、免状祝いをした時の仲間と集まってクラス会をした。旧友らと会っているとだんだん三河へ帰るのが億劫になってきた。事件の事もあるので退職を決意した。博多駅から国鉄の夜行バス月光に乗った。名古屋で降りて豊田市へ向かう。職場へ行って組長に退職したいと申し出る。

「ああ、ほうかい」
簡単に受理されちょっと寂しかった。

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5千円の赤バイ

昭和45年10月半ば。故郷の当条へ戻った。昔住んでいた廃屋に手を入れてアジトにした。むき出しの土壁にベニア板を張り、白いペンキを塗った。ライトコントロールを付けておしゃれな電灯も下げた。

八女の職安に出向いて失業保険の手続きをした。足を確保せねばならない。このころになると広川〜久留米線の堀川バスの運行も日に3本と減少していた。車かバイクでも無いと。川瀬のバス停まで2キロを歩くしかない。中古のバイクを探そうとして、野田自転車を尋ねた。数台のバイクが店先に並べてあった。けど、どれも手が届きそうに無い。免許はガンガン屋に行ってた時、自動二輪を取得していた。90CC程度が欲しい。店の裏に回ってクズ鉄置き場を見ると、隅の方に地金同然のホンダCS90が目に入った。店は兄弟二人でやっていて、弟のコウちゃんが円管服を着て店先でバイクの修理をしていた。円管服というのはツナギの事だが、当時は円管服と誰もがそう言っていた。

「裏にあるCSはいくらね」

「おー、あれか。あれは地金同然やけん、5千円でよかぞ。ばってん。動くかどうかわからん」

本気で買うとは思っていないみたいで、ついコウちゃんの口が滑った。ヨレヨレで動くかどうかも定かでない。がどうしても欲しくなった。このCS90は、しばらく前まで若者たちの憧れの的だったのである。特に真っ赤な色のCSは90人気だった。だがこれは生憎と黒である。

「うん、ほんなら5千円ね」

ポケットから速攻で5千円札を出した。コウチャンは一瞬、

「しまった」

という表情をしたが平静を装って受け取った。

アジトまでバイクを押して行った。その日の夕刻からCS90の復元に全精力を傾けた。プラグとエンジンオイルを新品と交換しエンジンを掛けてみた。2〜3度キックすると、

「バババ、バババ」

ときたので、キャブレターの調整をしてシートに跨ると再度キックした。

「ブルルルー」

「お、掛かった」

ドキドキしてハンドルの右グリップをグィと回した。

「ブーンブーン」

回転が順調に上がる。嬉しくなって、クラッチレバーを引いてギアーをガクンと踏んで徐々に繋いだ。CS90は勢い良く飛び出した。

「キャッホー!」

ギァーをさらに踏み込んで、サード、トップにして裏のオウテキをグルリと回った。さらに指し合を
通って中小路へ入り、公民館前を抜けて北の切りへ戻った。

塗装はお手の物だ。直ちに燃料タンクを取り外し、作業にかかった。まず、タンクとフレームに丹念に水ペーパーをかけた。乾かしてから布で吹き上げる。メッキ部分をテープと新聞で養生してから市販のスプレーで丁寧に塗った。最初はサーッと薄く塗る。それから徐々に塗りを深くする。あまりゆっくり塗ると塗料が流れるので注意が必用だ。
塗り終えると乾くのを待って、シートにはヒョウ柄のカバーをつけ、ハンドルを一文字に変えた。ポンコツだったCS90が新品同様によみがえった。

「兄ちゃん、カッコようなったね」

作業中から栄が覗きにきていた。

「おお。ほんなもんになったろうが」

これが後に広川でちょっとだけ有名になる5千円の赤バイである。

CS90は実に良く走る。OHC 89CC 8馬力のエンジンは回転の上がりもスムーズで時速100キロを軽く出した。広川の農道を抜け、国道3号に出ると八女市後乃家の四つ角で愛車を止めた。

自動車学校の申し込み

失業保険があるうちに車の免許を取る事にした。八女中央自動車学校と書かれた事務所のドアーを開けて入ると目の前の事務員に声をかけた。めがねをかけた丸い顔の女だ。

「すんまっしぇん。入学ばしたかとですが」

「あ、そんなら、この書類に記入してください」

渡された申し込み用紙に下手な文字を書き並べると10分ほどで完成した。丸顔の事務員は書類を入念にチェックし始めた。

「どの時間帯にせらっしゃるとですか?」


「えーっと。午後からがよかです」


そういうと事務員は後ろにいる小柄な40年配の男のそばに寄っていって、
「小川先生。午後の部は何時からが空いてますか」


小川と呼ばれた小男は申し込み用紙を見ながら、


「自動二輪ば持っとらっしゃあね。ほんなら。学科はいらんたい。午後4時からが空いとうばってんねえ」

「午後4時からでよかですか。よかなら明日から来てください」

「はい。お願いします」

「ほんなら。料金ば払うてください」

事務員に促されて全部で28000円を納めた。早くて続きを終えて退出しないと次の人が待っている。

帰りしなに八女市本町の桐明書店に立ち寄った。ここへは中学生の頃からビッグコミック、航空ファンや模型とラジオ、航空情報といった本を求めて良く来ていた。自動車学校の入学金を払ってもポケットには2千円が残っている。久しぶりに航空ファンでも買おうと思った。毎月21日が発売日なのだ。新刊が出ているはずだ。

いつもの棚を見ると確かに今月号が並んでいる。表紙はF4ファントムが飾ってい目次を見てパラパラッと斜め読みするが、ジェット機の写真ばかりである。第二次大戦のレシプロ機は扱いがほとんどなかった。特にお気に入りのソリッドモデル教室もF4Uコルセアーでは興味がわかない。買うのは止めて文庫の書架を眺めていると、国盗り物語という背文字が目についた。著者は司馬遼太郎とある。ふーん。難しそうな名前ばい。ばってん。題が国盗り物語とは面白そうな。とりあえず1巻を買うてみようか。

アジトに戻って文庫を紐解いた。文章が平易で非常に読みやすいから物語がスラスラと頭の中に入ってくる。平易な文章なので中卒程度の学力でも読めた。これまで読んだ本は文章がやたら長いので、何が何だかさっぱりわからない。警察の調書もセンテンスが非常に長い。司法、行政、といった文章も難解でわかりにくい。

一般人にはわざとわからないように作られているとしか思えない。その点、この司馬遼太郎という人の本はとても読みやすい。一晩で1巻を読み終えてしまった。これいらい司馬作品を良く読むようになった。歴史関係の書籍など難解で面倒臭くて思えていたのが面白く感じられるようになってしまった。幼馴染のカズナリやイサムは18歳で直ぐに免許を取得していた。19歳での免許取得だから同年代も者と比べて1年ぐらい遅れた。

ある日久留米のタミーで中学で仲良しだったヨシアキと偶然再会した。彼はニアガリ者だが、勉強はそこそこできたので八女工業土木科へ通った。が1年で辞めてブラブラしていたので一緒に遊ぶようになった。

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昭和45年12月初旬、午後、(19歳)

福岡県久留米市、西鉄久留米駅、名店街タミーにあるスナック喫茶「フルーツポンチ」のテーブルに僕とヨシアキは向いあって座った。

「マコちゃん、私しゃ、美代子ば呼び出して○○するばい」

と言って入口のピンク電話をかけ始めた。

彼は歌がうまくて面白い。おしゃれなスリッポンの靴を履き、服装もアイビールックで決めている。ディスコや街角で女を引っかけるのはお手の物である。いま付き合っている女は佐賀県江見町から久留米の縫製工場まで通っているという。

常に女を切らさないヨシアキが羨ましく思える。

見知らぬ女に街角で声をかけその日のうちにやってしまうなんて、ジャンパーに先の尖った魔法靴を履いている僕にはとうていマネのできる芸当ではなかった。

「ヨッしゃん、そんなら俺は帰るけん…」

「うん、そんならまたね、マコちゃん」

西鉄バスセンターから八女営業所行きのバスに乗って川瀬まで40分ほどである。川瀬から当条まで2キロだ。赤色の堀川バスが運行しているが1時間に1本しかない。次のバスまで40分あるから歩くことにした。こんなことなら赤バイで来ればよかった。

真っ直ぐな道をとぼとぼ歩いていると、牟礼の方からおばしゃんが自転車でやってきた。光江さん、子供のころ遊んでもらった「ヤー」の母ちゃんだ。おばしゃんは川瀬の十番というホルモン屋で夕方の5時から夜の11時まで働いている。

広川町でも九州自動車道の工事が始まって飯場ができている。鉄筋工や型枠大工、土工といった連中がホルモン屋のお得意だ。と、光江おばしゃんがこの前路で会ったとき話していた。


「マコちゃん、今帰りね」

「うん、」

挨拶を交わしてテクテク歩きから20分で当条に着いた。腹が減っているので、すぐに母屋に行った。誰もいない。炊飯ジャーを開けて茶碗に飯を大盛りした。コンコン漬にカツオ節を醤油でまぶして飯に乗せるとそれだけで2杯はいけた。

食後の一服をしていると表で車の音がした。親父が帰ってきたようだ。急いでタオル1本を肩にかけた。裏口から徒歩で3分の距離にある村の共同風呂を目指す。石鹸を持ってないので湯船に浸かるだけだ。

温まって風呂を出るとアジトにへ移動した。綿入り半纏を羽織って炬燵に潜った。テレビを見ていると、外で車の止まる音がした。足音が近づいて窓の外に人の気配がする。

「おーい、マコちゃん、おるかい。私じゃん。」

「おー、ヨッしゃんかい。どげんしたと、入らんかい」

「連れがおるばってんよかね」

知った者なら真っ直ぐ来るから、知らん奴に違いない。

「うん、よかよ、」

ガシャピーンと破れ障子が開いて唐芋顔が現れた。後ろには女の姿が見える。美代子に違いないと思った。

「これが美代子たい。今日は泊めてくれんね」

女のことは聞いていたが、実際に会うのは初めてだ。美代子はニコっと笑った。笑うとエクボができた。瓜実型の可愛い顔で男好きのするタイプだ

「えー、そりゃあ、よかばってん、布団ひとつしかなかけん。炬燵で寝るならよかよ」

二人はアメリカラムネのホームサイズとバタピーを持参してきた。コーラは湯呑に分けて飲んだ。そして美代子が言った。

「うちねえ、今度の土曜日に会社の専務からご飯食べようって、誘われたとよ」

「なんかそりゃあ、おまえはその専務から○○されたっちゃなかろね」

ヨシアキが不機嫌そうに言った。

「なーん、そげんことはなかよ」

 

それから二人でぶつぶつ言い合いを始めた。僕は布団に潜った。うつらうつらしていると物音がしてきた。目を凝らすと、炬燵の中で何かゴソゴソしている。

「エヘン!」

とやるとそれからは静かになった。

朝目覚めたのは7時だ。ヨシアキと美代子は大急ぎで身づくろいをするとNコロのエンジンをかけて出て行った。僕は母屋に行って食卓についた。母親のフサはまだいたので、カンズメ工場の仕事は午後からのようだ。玄関からは妹の歳子が、

「行ってきまーす」

続いて弟の栄が

「母ちゃん、行ってくるけん」

自転車に乗って学校へ行った。梅子は八女津女子高校の3年生。繁雄は県立福島高校普通科の1年生。

アジトでビッグコミックを読んでいると、車の音がした。しばらくすると破れ障子が開いて、唐芋(といも)顔がヌッと現れた。

「ヨっしゃんかい」

「はい、私じゃん、上がらせてもらうばい」

スリッポンの靴を脱いで炬燵に入ってきた。


「丸下被服の専務から金ばもらおうち、思うとるけん、加勢せんの」

「えー、なんそりゃあ?」

「うん、俺の女に手出したけん、どげんしてくれるかち、電話ばしてきた。今日午後3時にフルーツポンチに呼び出したけん、アンタも一緒に来んの。マコちゃんは何もせんでよかけん」

付いて行くだけでだけで良いならと思った。どうせ暇だしすることも無いのだ。

「友達に名古屋帰りの汚れがおるけん、今から連れて会社に行くけん、話会おうち言うたら、それは困るけん、どこかで会おうち、専務が言うた。金ば払うけん、かんべんしてくれち言う口ぶりやったけん、3万円は握るばい」

僕は名古屋帰りの汚れという設定になった。遊び手がジャンバーではマズイ。薄いグレーの背広があるのでそれを着ることにした。あいものだから少し寒いが我慢するしかない。これに安物のソフト帽を被ってマッチの軸を燃やして炭で口ひげを書いた。薄いサングラスをかけるとそれらしく見えるようになった。

西鉄久留米には午後2時半ごろ着いた。駅裏の空き地にNコロを止めて「フルーツポンチ」を目指した。ドアーの取っ手を引くとカランコロンと音がした。中をのぞくと奥のテーブルに中年の男が座っている。不安気な様子が伺える。

「マコちゃん、ここに座っとって」

ヨシアキはそう言うと男の方に歩いていった。

入口付近のテーブルに着いた。

店員がおしぼりと水を持ってきたので、

「ブレンドひとつ」

他人を脅かすなんて、考えた事も無かった。これからどうなるだろうと心配になってくる。

ヨシアキは男に近づいて話をしていたが直ぐに戻ってきた。

「ちょっと行ってくるけん」

「どうしたとね」

「金ば払うけん、一緒に来てくれち。相手が言いよるけん、行ってくるたい。マコちゃんなここで待っとかんね」

30分もすれば戻ってくると思っていた。が1時間過ぎても何の連絡もない。だんだん不安になった。しかし、このまま帰るわけにもいかず、一杯のコーヒーで長時間いるのも気が引けた。2時間過ぎたのでいたたまれなくなって、

「ブレンドコーヒーとトーストください」

一人で帰るにしてもこんな格好じゃ、バスにも乗れない。軽食を食べ終わってロングホープをふかした。時計を見るとすでに3時間が経過している。 この辺が限界と思った時、入り口がカランコロンと鳴った。ドアーが開くと唐芋顔が見えた。肩を落として戻ってきた。トシアキは椅子に座るなり、

「マコちゃん、しまえたばい。龍神組に連れていかれた。ふざけとると熊の檻に入るぞち言われた。檻のそばに連れていかれたけん、えずかったあ」

「えー、あの龍神組か。そこに連れて行かれたとね。そりゃまたどうして?」

「専務がヤクザに脅されとるちゅうて、頼んだとげな」

「君はまだ若いんだ。ぶらぶらしとってはいかん。自衛隊に行って修行をしてきなさい。言う事をきかんと(しま)やかすぞ!」

最後の言葉は迫力が違ったそうだ。

「すぐその場で電話して久留米の自衛隊に入る手続きばされた」

「ふーん、しまやかすち言われたら言う事ば聞かないかんのう。ばってん、熊の檻に入れられんでよかったやんの。で、いつ自衛隊に行くとね」

「12月15日には行かないかん」

それから二人で12月14日の夜中まで遊び回ってヨシアキの家に泊まった。早朝6時に起きると赤バイにヨシアキを乗せて久留米市高良内にある陸上自衛隊へ送った。

それから2日後に今度はアジトに自衛隊の勧誘係りが現れた。

「な、山下君、海上航空隊に入らんかい」

菓子袋参で連日口説かれた。体力には自信がないし喧嘩も弱い。迷いに迷ったが海上航空自衛隊というのにひかれて入隊を決意した。簡単な試験と尿の検査があった。去年の夏は急性肝炎で入院したので、小便は便所で勧誘員の尿を入れて渡した。こうして僕も自衛隊へ行くことになった。入隊日は明けて1月11日と決まった。

この事を中学の同級生で級長だったエツオに話すと、壮行会を開くと言い出した。緊急に中学の3年4組の同級生に召集がかけられた。

昭和46年1月10日、上広川の吉常にある料亭丸十に席が設けられた。マルケイ、ペコ、コウシ、ヤギ、トモコ、ケイコ、ヒサコ、ヒロコ、カズコ、エンナリ、ジャン、トミオ、エツオという面々が集まった。

宴会が終わると、

「入隊ばんざあい!」

1月11日早朝、アジトへジープが迎えにきた。長崎の相浦にある海上自衛隊へ連れていかれた。基地の中にはカッターという船が並べられていた。オールの握りが黒く汚れている。

「あれは君の先輩たちが訓練で手に血豆ができてそれが破れて黒く跡が残った」

と説明され卒倒しそうになった。自分にはとうてい無理と思い入隊はしないと言い張った。勧誘係のジープで当条のアジトに戻ったとき家族は驚いた。もっと驚いたのは壮行会を開いてくれた同級生たちである。

「マコちゃんば川瀬で見たばい」

「自衛隊に行ったんじゃなかと。遅れたとかな?」

などと噂しあった。

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