昭和46年1月(20歳)

 

1月15日、午前9時、寒気はあるが絶好の晴天である。広川中学校の玄関に昭和41年卒業の面々が集まり始めた。時間の経過を経て人の列は式場の体育館へと移動する。

黒いスーツに赤シャツに黒と白の縞模様のネクタイ姿で出た。下広川、中広川、上広川に分かれ、それから集落別に並び、当条の列に並んだ。当条の連中は自衛隊を1日で逃げ出した事をまだ知らない。

378名もいるから次第にガヤガヤと騒がしくなってきたが、式次第は順調である。やがて閉会の挨拶があると、男女混合の輪があっちこっちにできた。すると聞き覚えのある声がした。声のする方に目をやると、なんとあの唐芋顔が見えたのでたまがった。

「おい、ヨッしゃん、自衛隊はどげんしたとか?」

 

自分の事は棚に上げて思わず問うた。

「あ、マコちゃん、自衛隊にはもういかん。朝礼の時、タバコば吸いよったら、教官にがられたけん、頭にきて辞めた」

 

「ふーん、あれから俺も勧誘係りに目ばつけられた。毎日来てせからしかけん、海上航空隊に入隊した。ばってん1日で辞めて帰ってきた」

 

「あははは、そげんか!」

「そうか、マコちゃんもかあ、今、自衛隊は誰でも入れるばい。同期で刺青しとるともおったけん、なんで自衛隊にきたとか聞いたら、組で不始末して逃げて来たとげな。追っ手は自衛隊の中にまでは来んけんね」

涙が出るほど笑いあった。

 

シャッター屋 (20歳)

 

成人式を終え、職探しに久留米の職安を訪ねた。中学卒の学歴では工員や店員、トラックの運転手などの募集ばかりだ。その中に三和商会というのがあって、

「作業員募集・18歳〜30歳・日給月給3万円・学歴不問・要普免・8〜5時勤務・住所 久留米市上津町・TEL・092〜41〜0088歴参」とあるのを見つけた。

これにしようと思った。

 

「この、要普免と歴参ちゃ、何ですか?」

窓口にいる初老の男に訪ねた。

「普通免許がいるちゅう事と、履歴書を持ってきてくれちゅう事ですばい。行きんしゃるなら電話ばかけてみまっしょうかね」

 

「あ、はい」

 

「モシモシ、こちらは久留米の公共職業安定所ですが。今、山下さんちゅう方がお宅に面接に行きたいち言うとらっしゃあですが。都合はどげんですかね。明日の午後2時頃がよかとですね、わかりました」

 

「明日の午後2時だそうですが行かれますか?」

 

「はい、行きますけん」

 

次の日赤バイに乗って約束の時間に行った。会社とは名ばかりで鉄骨にスレート屋根が被さった小屋である。隅にベニア板で囲われた部屋がある。小さな机と簡単な応接セットが置いてあり、頭を心斎刈りにした、中年の男が待っていた。履歴書の入った封筒を差し出すと目を通し、

 

「仕事はシャッターの取り付け。勤務は8時〜5時まで、休みは日曜日。月給は3万円、通勤手当は無し。これでよかったら明日から来てください」

 

こうして今度はシャッター屋になった。三菱キャンター(2トン)に3人乗り込んで、電気溶接機とシャッター部材を積んで出発する。筑後地方一円をシャッターの取り付け工事をして回らねばならない。ガンガン屋の経験があるので電気溶接はお手の物だ。難しいのはシャッターの板を切る事だった。取り付ける場所の間口に合わせて波打った薄い板を金切りノコで切っていくわけだが、これが存外難しい。自動車の鉄板は0・6ミリ以上あるので切りやすいがシャッターはそれよりも薄いから非常に切りづらい。力を入れ過ぎると金切りノコの歯が直に折れてしまう。

雨が降ると合羽を着て赤バイでやってくるのを見て部長が、

「大変だろう。知り合いが中古車を扱っているので、車を買うなら世話してもよかぞ」

胸が弾んだ。ほとんどの友達が車を持っている。スズキフロンテ360が8万円であるというのだ。

 

「俺も車が欲か」

 

しかし金が無い。欲しくてたまらないが8万円という現金の工面がつかない。母に言えば、一蹴されることは目に見えている。下手をすれば親父から頬下駄を打たれかねない。中古屋のおっちゃんに月賦にしてくれと頼んだが現金払いで無いとダメだという。見かねた部長が助けてくれた。

 

「うちの会社で手形を切ろう。毎月8千円ずつ給料から差し引けば良かたい」

 

3日後には三和商会の前にスズキフロンテ360が届いた。白い塗装に全くツヤの無いヨレヨレの軽自動車である。しかし、2サイクル25馬力のエンジンは快調に回る。走りも軽快だ。さっそく当条のアジトに持ち帰り洗車をした。ワックスをかけるがしっかり水垢が付いていてピカピカにはならない。プラスチック製のひ弱なハンドルには包帯をグルグル巻きつけて握りをよくした。右のドアーにはフェリックスキャットが爆弾を抱えたマークをプラカラーで描いた。プラモの塗装に使うプラカラーが残っていたのでそれで描いた。

「普通の2サイクルエンジンとは違う、CCI方式じゃけんね、馬力も強かぞ」

 

とは手前味噌な思いで、有体に言えば只のポンコツ車だ。シャッター屋になってからヨシアキとずいぶん会っていない。風の便りではスレート屋に就職したと聞いた。屋根や壁を貼っていく仕事だがこれは死ぬほどキツイ。

 

仕事中に脚立から落ちて肋骨にヒビが入った。1月ほど入院したので入院仲間と写真を撮った。シャッター屋になってからは麻雀の誘いが多くなり、遊び友達が浪人や学生へと変化した。ある時、麻雀仲間のペーさん(北川)から自動車のワックス掛けのパーフェクトセンターで働かないと持ちかけられた。月給は4万円という。スズキフロンテの支払も終わったので転職することにした。

 

昭和47年・呉服の担ぎ屋になる(21歳)

 

特殊なワックスでパーフェクト処理を施すと1年間はワックス掛けが不要のうたい文句である。費用は1500CCクラスで8000円。2000CCクラスで10000円だ。経営者は久留米市に本拠を置く近藤源次郎、31歳のやり手だ。本業は呉服商で屋号は「藤源」という。従業員10名の有限会社で、副業としてパーフェクト処理業に手を広げた。

しかし、1年後にこの事業は頓挫する。儲からないので、福岡県小郡市の大森電工という所に売りつけてしまった。3人いた従業員のうち2人は新しい経営者の下で働く事に同意した。僕は呉服部へ来ないかと誘われた。月給45000円に釣られて頷いた。

 

呉服の販売なんて全くの未経験である。が営業用の車がトヨペットクラウンのハードトップやコロナマークUのハードトップと言った具合だ。若者の心を捉える営業車に惹かれたのである。

 

「山下君、その服装をなんとかせないかんね」

 

ブレザーに先の尖った魔法靴を見て先輩が注意した。歳の近い先輩に連れられて八女市の堀洋品店に連れて行かれた。「藤源」ご用達のショップだからツケが利いた。店長に進められるままアイビールックのブレザー、スラックス、ボタンダウンのシャツ、スリッポンの靴を揃えた。

 

最初はコロナのライトバンで湯のし屋、仕入先の問屋、仕立屋回りなどの雑用からやらされた。1ケ月後には博多帯と大島紬の入った段ボール箱をライトバンに積んで売って来いと言われ仰天した。

 

ど素人が高級呉服の販売などイキナリ始めて売れそうにないのが普通である。しかし、僕は意外な才能を発揮した。初日から博多帯を1本売ってきたのである。これには呉服屋の大将も驚いた。それからはメキメキ腕を挙げて2年後にはクラウンのハードトップがあてがわれ、熊本支店長に抜擢された。支店長と言ってもマンションに事務所があり50代の女事務員がいるだけで、一人で営業に回らねばならない。

 

藤源の売り上げがはかばかしくなかった。売上低迷から脱出を目指してこれまでの月賦販売から信販会社と提携して長期ローンが利用できるような制度に移行したが思うように業績は伸びなかった。

 

手形決済日が近づくと社長は集金〜集金と従業員の尻を叩いた。大幅な値下げをしてまで現金売りに精を出したが1本で数十万もするような大島紬が簡単に売れるわけがない。博多帯の4万円を半額の2万円で馴染みの客に買ってもらうのが関の山である。社長は最後の手段として大島紬を質入れして手形を落とすようになった。

販売の為に商品を仕入れるのではなく、資金繰りための仕入れと化した。経営は次第に苦しくなり、従業員の給料も遅配が続いた。

 

仕入れには買い取りと委託という二通りの方法を併用していた。買い取りは文字通りの買い取りである。委託というのは問屋から商品を借りきて売れた分だけを清算する。買い取りは売れなかったら自分(近源)が在庫で抱えることになるが、委託では売れなければ返却すればいいから在庫が増えることはない。

 

手形決済日の2日前に1本20万円〜30万円する大島紬を数十本借りる。それを入質して現金を作り、手形が落ちたら金策に走り質屋から出して問屋に返却する。この方法は死の接吻と業界でいわれている。一回だけで済めば良いが、苦しくなると何度でもやりたくなる。常態化して典型的な自転車操業と相成る。

 

藤源の経営は最悪の状態に陥った。僕の売り上げは三分の一を占めていた。給料日になっても分割でと奥さんが言うので、出勤するのを止めた。アジトまで社長の使いがやってきて出勤を促したが応じなかったので自然退職となった。掛け金の未納が長期に渡るというので、失業保険・厚生年金の手続きはいっさいなかった。僕の脱落で集金は激減し、3ケ月後には不渡りを出したと元、同僚が知らせにきた。

 

アジトに籠り自堕落に暮らしていた。破れ小屋のような部屋だが、家賃はいらないし、飯は親が食わせてくれた。

 

昭和54年・独立、失敗(28歳)

 

中学の同級生ペコちゃん経営の喫茶店「サンラビ」までの距離はおよそ2キロだ。当条北部集落の裏手に広がる農道をテクテク歩いて暇つぶしにいくのが日課となった。

 

サンラビのドアーを開けるとカランコロンと鳴った。カウンターに座った。

 

「お、いらっしゃい、マコちゃん」

 

「うん、ブレンドとトースト」

 

カウンター越しにペコちゃんがケトルをのの字に回しながらお湯を注いでいく。ぷーんと香ばしい匂いが漂ってくる。

 

「マコちゃん、もう呉服の仕事は辞めたとね」

 

「うん、もうあそこはつぶれたげな」

 

ブランチしているところへ見覚えのある客がやってきた。

 

「おろ、ケンちゃん、どうしたとね」

 

藤源のケンちゃんである。歳は僕よりも5つ歳上だ。売上は常にトップクラスで藤源を支えていた人物である。

 

「会社が潰れたけん、今、一人でボチボチ商売ばしよるたい」

 

「ふーん、そうね。仕入やら大変やろうたい」

 

「なあ、山下君、俺と一緒に仕事ばせんかい。最初は委託販売でボチボチ始めればよかたい。資金は金融公庫から借りられるばい。役場の商工会で申し込むとよか」

 

「ばってん。車も持たんし…」

 

「車なら緒方さんに言うと頭金無しのオール月賦で売ってくれるよ」

 

緒方とは福岡トヨタ久留米営業所の係長である。藤源に車を何台も納車していて。僕もケンチャンも顔なじみなのだ。

 

販売店に行くと緒方さんは、カタログと計算機を出して、

 

「えーっと。36回払いで56000円になりますね。最終的な支払額は2016000円です」

 

「えー、カリーナが200万にもなるとね。カタログ価格が138万円ばい。諸経費が18万円として…、金利が456000円にもなる」

 

金利の事など、もうどうでもよかった。それよりも頭金無しでも車が手に入りそうな事で有頂天になっていた。ポンコツの軽自動車ならいざしらず。1600CCの精悍なイメージのカリーナハードトップのスーパーデラックスが手に入るという夢のような出来事である。当座の運転資金はケンちゃんが保証人になってくれ、国民金融公庫から200万円を借りることができた。こうして僕は呉服の担ぎ屋となったのである。しかし、いざ独立してみると思うように売上は上がらないので1年もしないで挫折した。

ブラブラしていると、同じ当条出身の野田さんがうちで働かないかと誘ってくれた。大将は寝具や雑貨を移動販売してまわるのが仕事だ。最近呉服も扱うようになったので僕にお座敷をかけたというわけだ。

大型の箱バンに寝具や雑貨、呉服類を積みこんで田舎や離島で展示即売会を行うという手法である。壱岐、対馬、五島列島、聞いたこともないような九州の島々を巡る行商は面白いものではなかった。ここも半年で辞めた。

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始まりの始まり(28歳)

 

昭和54年、福岡県久留米市、

静かな住宅街の一角に小さなスーパーを営む家があった。スーパーと言うよりも雑貨屋と言った感じだけど看板にはスーパーと書いてある。平屋瓦葺の普通の家である。敷地内の小屋に業務用の冷蔵庫が置いてある。家族は両親と長男夫婦と久恵という娘がいた。母屋の離れに6畳間の部屋を持ち、ここで着物の仕立物をして暮らしていた。当時、小さな呉服屋の店員をしていた僕は、客から注文された付け下げや紬の仕立てを頼んでいた。久恵が10人並みの器量で、同い年という事もあり足繁く出入りしていた。

 

久恵には同い年の幸恵という従兄がいて、車で10分ほど離れた所に実家があった。しかし、家にはたまに帰る程度で、久恵の部屋に入り浸りであった。幸恵も着物の仕立物をしていたのである。二人は久恵の部屋で机を並べて裁縫していた。容姿は久恵に軍配があがる。と言っても幸恵を醜女とも言えない。平均的な日本人の顔をした田舎娘といった感じである。体格は二人とも中肉中背である。

 

今では28歳といえば婚期が遅れたとは言えないが、当時としてはトウの立った年齢である。久恵の両親や兄は早く嫁にやりたいとやきもきしていた。そんな状況の中、彼女らが仕立物を請け負っている呉服屋から久恵に見合の話が持ち込まれた。相手の男は西鉄バスの整備工をしている30過ぎの男で、同じ久留米市内に居住しているという。西鉄バスと言えば福岡県では名門企業である。整備工とは言え、大きい会社だから食いっぱぐれがないと両親も兄も大乗り気である。

 

久恵は断り切れずに見合を受けた。そういう状況の彼女らであった。そんな事とはつゆ知らず。僕は、のんきに久恵と幸恵がいる部屋を訪れた。何かと用事を作っては遊びに行っては世間話に花を咲かせていた。僕の勤める呉服屋は久恵の家から1キロほど離れた時計屋家の半分を借りて店舗としていた。呉服屋と言ってもほとんどが行商なのだ。

 

ダメな男

 

この頃僕は喫茶店のウェイトレスをしている良子と付き合っていた。彼女には綺麗な妹がいて百科事典のセールスをしていた。付き合いで百科事典を買わされていたのである。そのローンが滞っていた。友達と呉服の担ぎ屋を始めた時、金融公庫から借りた運転資金200万円も返せなくなっていた。呉服の行商にも身が入らず、知り合いの喫茶店に入り浸っていた。オーナーと行った初めての唐津競艇で10万円ほど儲かった。それから競艇が病みつきとなっていったのである。

 

金融公庫の借金は親父がわずかな土地を手放して始末してくれた。こっちは問題なかったが、一緒に担ぎ屋を始めた友人のけんちゃんにも40万円ほど借りていた。それと百科事典のローンやガソリン代のツケも溜まっていた。そんなこんなで八女郡の実家に支払いの電話が頻繁にかかってくるようになり母親が頭を抱えていた。スピード違反で捕まり罰金の督促の電話が警察からあり、

 

「払わないと逮捕して留置所に入れる」

 

と言われ、母は、ためらわずに

 

「そげんしてください。息子は月1回帰ってくるぐらいで、どこで何ばしよりますか、じぇんじぇん知りまっせんけん。村の駐在さんにも相談しました。ばってん、駐在さんもどげんしてよかかわからんち、サジを投げられました。牢屋に入れてもらうなら、それが一番よかですけん。どうか警察の方で掴まえてください」

 

母がそういうと、

 

「お母さんが罰金1万円を立て替えて払ろうてくれんですか。警察も忙しゅうて罰金の未納ぐらいでイチイチ捜査できんとですよ」

 

すると母は、

 

「うんにゃあ、1万円なんてとんでもなかです。家には息子の借銭の尻拭いで一銭もなかですもん」

 

ある日、ふっと実家に帰ると、母が半泣きで警察とのやりとりを説明した。

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居候になる

 

実家にも居づらくなったのでどうしようかと思案した。中学の同窓生でカズナリと仲良しのゲンちゃんを思い出した。彼は高校を出て運送屋で働いていたが19歳で4トントラックを購入し、個人の運送屋になった。しかし失敗して借金をこさえた。それから長距離トラックに乗って借金を返した。そのゲンちゃんが久留米市でアパートを借りて一人暮らしをしているというのである。僕は、カズナリから聞いた野中町の葉月荘を訪ねた。

 

いかにも安普請のアパートのドアーをコンコンと叩いた。

 

「はーい」

 

スポーツ刈りで目のクリクリしたどこか幼さの残る顔が出てきた。

 

「あ、誰かと思うたらマコちゃんか、どうしたと、まあ、入らんかい」

中学の顔見知りというだけなのだ。帰れと言われてもしかたがない。そう思っていたのでゲンちゃんの言葉がとても嬉しかった。

 

「ゲンちゃん、俺は今、借金取りに追われて行き場のなかけん、今夜停めてくれんね」

 

哀願するように頼んだ。

 

「ああよかぜ、俺も借金の辛さはわかるけん」

 

その晩は二人で冷酒を飲んで布団を被った。

 

ゲンちゃんはこの時、大型ダンプの運転手をしていた。仕事が終わってアパートの部屋に戻るのは二人とも9時ぐらいであった。残り物のご飯にお湯をかけ塩クジラだけをオカズに飯をかきこんでいた。たまには仕事が終わって近くの屋台へ飲みにも行った。そんな事を繰り返していると出て行けとも言えず、

 

「しばらく居てもよかたい」

 

そういう事になってゲンちゃんのアパートに居候することになった。

 

ある日、久恵の部屋に寄った。同居している友達がいるので今度幸恵を交えて4人で焼鳥屋でも行こうと切り出すと、

 

「うん、行こう、行こう」

 

と、久恵も大いに乗り気だった。

 

グループ交際

 

ゲンちゃんに話すと大喜びである。それから珍竹林という屋台に4人で時々焼鳥を食べに行くようになった。飲んで帰りに彼女らが葉月荘に立ち寄った。家財道具と言えば薬缶と炊飯器、小さな雪ひら鍋と茶碗、コップ、ぐらいしかない。便所は汲み取り式で便器の汚れがひどい。

 

「うわー汚か。うちが掃除ばするけんバケツとタワシば貸して」

 

見かねた幸恵が掃除を買って出た。

 

「そげなもんはなか」

 

すると幸恵は押し入れを開けて中を物色し、使い古しのタオルを見つけると、

「これ、雑巾にしてよかね」

 

すぐに便所の掃除を始めた。

 

「久ちゃん、アンタは部屋の中ば掃除せんね」

 

久恵も部屋を掃除しようとしたが箒も掃除機もないので万年床を片付けるぐらいしかできなかった。幸恵も便器のヨゴレが落ちないと嘆いた。

 

「明日、うちが道具持って掃除に来るけん。鍵ば貸しとかんね。掃除が終わったら鍵は管理人さんに預けておくけん」

 

ゲンちゃんは喜んで幸恵に鍵を渡した。翌日夜8時ごろ葉月荘の部屋に戻ると部屋はとてもきれいに片付いて便器も綺麗になっていた。こうして4人の親交は深まっていくのである。そしてこのトイレ掃除の一件から幸恵はゲンちゃんに気がある素振りを見せるようになってゆく。

 

久恵の離れの部屋に行くには玄関の横にある冷蔵庫の小屋を抜けていかねばならない。家人に気付かれる恐れがある。コッソリ離れへ行くには幅1米ぐらいの水路を飛び超えるしかない。夜中の訪問では懸命に飛んでいたが、一度ゲンちゃんが水路に落ちそうになった事がある。家の周囲は垣根があるので上手に飛ばないと樹木にはじかれてしまうのだ。とび越えたら猫の鳴き声を真似する。するとサッシが開けられる。そういう手筈になっていた。

 

こうして僕たち4人は、休日になると喫茶店でお茶したり。珍竹林へ飲みに行った。秋になると宮崎のえびの高原へドライブにも行った。楽しいグループ交際を続けていた。この時、僕はカリーナ1600スーパーデラックスを持っていた。やがて車の手形月5万円が支払えなくなる。車の代金180万円のうち三分の二ほどの支払いを終えていた。残金は60万円ほどしかなかったのでゲンちゃんが残債を引き継いで自分の物とした。が、車の名義変更はしてなかったと思う。こうして僕は車を失ったので呉服屋のサニーのライトバンを通勤にも使って良いということになった。

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久恵の縁談

 

この頃ゲンちゃんは知り合いから転職を勧められていた。同郷の先輩が車の部品工場を立ち上げるから働かないかと誘われていた。ダンプの運転手を続けるか工場で働くか悩んでいた。

いつものようにゲンちゃんと久恵の部屋を訪問したら久恵が浮かぬ顔をしていた。幸恵はカルピスを作ってきてテーブルに置きながら、

 

「久ちゃんは今、見合の話が来とるとよ」

と、切り出した。するとゲンちゃんが、

「へー、そうね、相手はどんな人ね」

「うん、西鉄に出よらすとよ」

 

久恵の代わりに幸江が語った。

 

「おー、西鉄勤務ならよかね。俺たちみたいな零細企業と違って安心ばい。結婚相手ならよかと思う」

 

僕の意見にゲンちゃんも頷いた。

 

「それがね、風采も上がらんし、色も黒い。久ちゃんのタイプじゃなかと。ばってん、お父さんも兄ちゃんも、よか話やけん、男は顔じゃなか。西鉄なら一流企業ぞ。安定した企業が安心たいと大乗り気」

 

「ばってん、そげん言われてもね。毎日一緒におるとじゃけんね。ワクドのごたる男は嫌ばい」収入が少なかなら自分で稼ぐけん。好きな男と一緒になりたか…」

 

久恵が黙っているので幸江が代弁した。ワクドのような男とはいささか言いすぎではなかろうかと相手の男に同情をおぼえた。ワクドとは方言で、ガマガエルの事なのだ。

「久ちゃんならよか女やけん、相手ならいくらでもおろうもん。そいで幸ちゃんも相手はおらんとか」

とゲンちゃんがカルピスを飲みながら言う。

 

「それがねえ、二人とも誰もおらんとよ」

 

久恵が寂しそうにつぶやいた。

彼女は長い髪で彫の深い都会的な顔だ。僕は好きなタイプだが、他に付き合っている良子がいて妊娠3ケ月だった。借金抱えている身では結婚などとんでも無いから別れてくれと頼んでも厭だと言い張る。良子の両親は僕との結婚には反対していると聞いていた。彼女は以前、お菓子屋の息子と恋愛し妊娠。向こうの親の反対で結婚を諦め、中絶したという過去をもっていた。

 

良子が別れないというのは、僕の気持が久恵に向き始めているのを察知したのかもしれない。良子と切れて久恵と付き合いたいと思い始めていたので気が重かった。それに借金もあるのでなおさらである。身から出たサビとは言え、面倒な事から逃げたかった。おまけに呉服の売り上げも上がらない。

 

夏の夜

 

夜9時頃、着物の仕立ての件で久恵の部屋を訪ねた。この時は家人に見られてもかまわない。冷蔵庫のある小屋の横を通って部屋へ入った。久恵は仕立物をする台の前でポツネンとしていた。

 

「今晩は。暑かねえ。もう蒸かし饅頭になったごたるばい。アレ、幸恵ちゃんはおらんとね?」

 

「あら、山ちゃん。うん、暑いね。幸ちゃんは実家に行っとるけん、今夜は向こうに泊まってくるかもしれん」

 

「ふーん、そうね。ところで、浴衣ば一枚大急ぎで縫うてほしかとばってん、よかね。5日の水天宮の花火ば見に行くとに着るとげな。こげな安物、銭ならんばってん。お得意さんの紹介じゃけん断られんたい」

 

知り合いに紹介された40代の主婦が高校生の娘に着せようと紺地に赤いカトレアを染めた浴衣を買ってくれたのである。

 

ついでに献上博多の半幅帯も注文してくれた。半幅帯が8千円。浴衣が仕立て代込みで1万2千円。合計2万円。利益は薄いが売り上げゼロよりもよかった。

 

「えー、浴衣ね、5日に着るなら後1週間もなかねえ。今付け下げ縫ってるけどよかよ、間に入れろうかね」

 

浮かぬ顔だったが仕事の話になると少し気を取り直した。部屋にはテレビは無く、ラジオから音楽が小さく流れ、扇風機がゆるやかに回っていた。久恵が立ちあがろうとすると薄手の白いスカートがふわりとめくれそうになったので慌てて押さえた。

 

「何か冷たい物持ってくるね」

 

久恵は母屋の方へ消えていった。僕はボタンダウンのシャツの胸ポケットからロングホープを出すと1本出して口にくわえながら淡いキャメル色の綿パンのポケットから農協マッチを取りだして火を点けた。2〜3服していると久恵がお盆に黒い液体の入ったコップを二つ載せて入ってきた。

 

「これ、飲みよって。あ、灰皿もいるね」

 

「お、アメリカラムネ」

 

コップを取って一気に喉に流し込んだ。液体が喉を流れる時のジカジカ感が心地よかった。

「ふふふ、アメリカラムネ」

 

久恵は小さく笑いながら再び母屋の方へ行くとカンズメの缶に似た灰皿を持ってきて仕立て台の前に座った。浴衣の反物に添えられていた寸法帳に目をやると、数値を確認し始めた。

 

「着丈は4尺。袖丈1尺3寸。身巾は…」

 

「うん、それに書いてある通りでよかけん。袖の丸みは少し大きくね」

 

それからしばらくして、

 

「昨日、見合の相手に会って喫茶店でコーヒー飲んだと。それから車で筑後川の堤防に連れていかれたと…」

 

「ふーん、ところで、見合は誰の心配ね」

 

「今村さんよ、あすこの奥さんの親戚げな」

 

今村呉服店の大将の奥さんと親戚になる30歳男性が見合いの相手だという。久恵と幸恵はこの呉服屋からも仕事を回してもらっているので断れなかった。

 

久恵の父親がどうしてもこの話をまとめたいと熱心だと言う。3つ上の長男が熱心になるのは嫁と妹の事を考えての事だろう。兄嫁にとって久恵は小姑になる。だから早く嫁に出したい。それが家族の総意なのだと言う事だろう。

 

「さっき、今村さんからお父さんに電話があって、近いうちにクギ茶ば持って来るげな。うちの気持ちは無視して話のどんどん進んでいきよる」

 

クギ茶というのは仮結納の事で筑後地方では決め茶ともクギ茶とも言われる。揺れる女心にクギを差す。そういう意味があるのだろう。そして久恵がこんな事を切り出した。

 

「昨日ね、男の人が車の中でキスしようとしんしゃーとよ。うち、嫌ぁーそげんとは…」

 

男の気持ちとしては十分すぎるほどわかる。この地方で筑後川の堤防と高良山の展望台はデートコースの定番なのだ。久留米市内でお茶して人気のない場所へ車を止める。高良山から久留米の夜景を見ながら女を口説く。または筑後川の堤防で。

 

「ふーん、そりゃあ、また忙しか男やねえ」

 

心にもない事をつぶやいていた。この時、ラジオからチューリップの歌う心の旅が流れてきた。

「あ〜あ、今夜だけは、君を抱いていたい〜♪」

夏の夜は流れ時間は夜中時を過ぎていた。母屋の電気も消え開けはなったサッシの向こうからコオロギの声が聴こえていた。僕は急に久恵を抱き寄せ唇を重ねた。二人は黙ってその場に倒れこんだ。

 

「ね、久ちゃん、二人で逃げよう」

 

自分でもどうしてこの言葉が出たのか良く分からない。

 

「うん…」

 

この夜、そっと久恵をライトバンで連れ出して久留米の篠山にあるラブホテル「有馬」で結ばれた。

 

「どこに行くとね」

 

「うん、長崎に行こか」

 

長崎へ

 

逃げる先は長崎だと思った。以前の呉服屋に居た時、頻繁に商売で行っていたので地理がわかっている安心感があった。それと稲佐山から見る夜景の綺麗さを久恵に見せたかった。逃げると言ってもピクニックにでも行くような軽いノリだった。この夜は久恵を自宅に戻した。あくる日の夜、打ち合わせのために久留米の競輪場の駐車場で待ち合わせをした。

 

約束の時間は夜の8時だった。サニーのライトバンを止めて車内で待っていると、白いシビックがやってきて近くに止まった。久恵が下りてくるのが見えた。近づいて来たので助手席へ招き入れた。カーラジオから流れてくる歌を聴きながら甘い雰囲気に浸っていると、コツコツとドアーのガラスを叩く音がした。振り向くと懐中電灯を持った警官がのぞきこむように立っていた。

 

「モシモシ。ここは危ないけん、早く家に帰りんしゃい」

 

「ああ吃驚した」

 

興醒めしたし、今夜は、クギ茶がくるというので明日決行を約束して別れ、それぞれの家に戻った。

 

次の日、久恵の部屋に忍び込んだ。昨夜、仲人が持ってきたというクギ茶を前にアイス珈琲を飲んだリして深夜になるのを待った。母屋の電気が消えてしばらくすると二人で小屋へ車を取りに行った。そのままエンジンをかけると音がするのでマズイ。久恵をシビックの運転席に座らせ、僕が後ろから押して少し離れた場所でエンジンをかけた。自分の乗ってきたサニーのバンを一人で押して母屋から離れてエンジンをかけ、後から付いてくるように久恵に小声で伝えた。

 

僕の実家の前にサニーバンを止めた。彼女のシビックで逃走することにした。運転するのは僕だ。八女郡広川町から荒木経由で久留米市へ入る。花畑から篠山へ行き、小森野を抜けて国道34号線へ出ると左折し、武雄方面へ車を走らせた。

 

「朝起きて久ちゃんがおらんとがわかったら吃驚するじゃろうね」

 

「うん…」

 

この時の二人は後でどんな面倒な事になるのかなど考えもしなかった。なぜかウキウキしながら武雄で長崎方面へハンドルを切った。途中、道路そばの空き地に車を止めて仮眠を取った。陽が昇ると長崎市内へ入り、観光地巡りをして夜は稲佐山観光ホテルに投宿。夜景を見ながら甘い時間を過ごした。次の日は大村競艇に行って数千円負けた。お金が無いので幸恵に金を送ってもらおうと久恵が電話をかけた。すると向こうでは大変な事になっていた。

 

久恵が男と逃げた事がわかりると見合の相手は怒り狂った。一緒に逃げた男を殺してやるとまで口にしたそうだ。久恵の父親も兄も激怒し、警察に捜査願いを出した。自殺の恐れがあるというので捜査願いは受理され、車両ナンバーは手配されたという。幸恵は、車のナンバーもわかっている。捕まるのは時間の問題だから帰って来いと久恵を諭した。

 

これを聞いて二人の恋の逃避行は空気の抜けた風船になった。久恵は怯えた。しかし、家へは帰りづらいというので幸恵の実家へ避難させる事にした。八女郡広川町にサンラビという喫茶店がある。僕の実家から2キロ離れている。ここで幸恵と落ち合う事にした。夕方にサンラビの駐車場に着くと幸恵はすでに軽トラで待っていた。

「あ、ごめんごめん、心配かけたね」

「うん、今村さんと相手の人がものすごはらいとらすけん。久ちゃんはしばらくうちの実家に隠れとくがよか。ゲンちゃんも心配しとるよ」

 

サンラビでシビックから降りて久恵と別れた。夕暮れの農道を自宅目指してトボトボ歩いた。実家の隣に昔住んでいた15坪の家があって廃屋になっているのでここをアジトにしていた。逃げる時置いていったサニーバンはすでになかった。鍵は付けておいたので勤め先の呉服屋の大将が持って帰ったのだと思われた。

 

アジトでしばらく寝ていたら腹が減った。勝手口から母屋の台所へ入り、コンコン漬けで飯を食っていると母がやってきた。

 

「あ、母ちゃん、父ちゃんは」

「おらん」

 

短気者の親父がいたらひどく叱られると思っていたのでホッとした。

 

「呉服屋の人が来てお前がおらんけん。行き先を知らんかて聞かれた。ばってん、知らんち言うた。車は持って行くち言うけん、ハイどうぞち、言うた。お前、女の人と逃げたげなね。ええくろ加減にしとかんと。また父ちゃんから怒らるるばい」

 

母の言う事はイチイチ最もなので弁解はできない。その夜はアジトでタオルケットを被って寝た。

 

次の朝起きてこれからどうしようと思ったが良い思案も浮かばない。サンラビに行く事にした。半袖の白いポロシャツにグレーの綿パンとスリッポンの靴をはいてアジトを出た

 

西瓜売り

 

母に無心した250円を握りしめ、中学の同級生だったペコちゃんが経営する喫茶店サンラビに向かって農道をトボトボ歩いた。20分ほどで着いたのでいつものようにブレンド珈琲を注文した。店内にはペコちゃんが競艇仲間と談笑していた。

僕の顔を見るとみんなソッポを向いてしまった。僕が借金で身動きがとれなくなっているのを知ってからギャンブル仲間は冷たくなっていった。特にリーダー各である柴田の豹変ぶりはあからさまで辛かった。ペコちゃんも渋々珈琲を炒れてきた。マガジンラックにあった西日本スポーツを手に取って広げると、

 

「日当1万円可・ちり紙交換員募集」

 

と広告が載っていた。電話をかけて面接に行った。免許証を見せるとノートに住所と電話番号を書けと言われ即採用になった。ちょうど夏場だったので、スイカの販売だと言われて戸惑った。

 

夏は西瓜で、他の季節がちり紙交換だと聞かされた。西瓜は利益が大きいという。一日だけ先輩の軽トラに乗せられて仕事を教えてもらう。次の日から一人で西瓜を売って回った。

「ご町内の皆様、こちらは西瓜の販売カーでございます。甘くて美味しい鳥取のスイカはいかがでしょうか。西瓜、西瓜、西瓜の販売カーでございます」

 

テープレコーダーに吹き込んだ音声を軽トラに付けたスピーカーで流して回るのである。ど素人でも1日5000千円〜8000円ぐらいになった。しかし、お盆を過ぎると西瓜のシーズンは終わりだ。9月上旬までちり紙交換をしたが要領がわからず稼げない。小銭をかき集めて唐津競艇に行ったがスッテンテンになった。唐津から博多駅まで無料バスが出ているのでこれに乗った。博多駅で降りた時、ポケットには80円しかなかった。

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人夫出し (29歳)

「毎日現金5千円日払い・作業員急募・新栄工業」の文字が飛び込んだ。電話をすると直ぐ迎えに来るからそこを動くなと言われた。15分ほどすると目の前に緑色の箱バンが止まった。色の黒い一見して土木作業員とわかる男が運転席から顔を出して声をかけてきた。

 

「電話の人な?」

 

「はい…」

 

後部座席のドアーが開いてもう一人の30歳ぐらいの男がこういった。

 

「乗らんね」

 

混雑する博多駅前から裏へ回って10分ほど車が走って3階建ての小汚いビルの駐車場で止まった。男たちが車から降りて2階へ向かってさっさと歩きだしたので続いた。

 

入口にカウンターがあって40年配の角刈りの男が座っていた。

 

「お帰り、お疲れさん」

 

体をジロジロ見ながら、

 

「日当は5千円。飯代と寮費ば引いて仕事が終わればここで2000円払うけん。この条件でよかならそこの帳面に住所と名前ば書かんね」

 

そばに汚い帳面があったので住所と氏名を書き込んだ。側から角刈りが奥に向かってアゴをしゃくった。

 

「食道に行って飯ば食わんね。ベッドはどこか空いたとこを使うとよか。作業着と長靴はその辺にあるとば使いない」

 

カウンターの向こうが食道になっている。コンパネで作ったテーブルと工事現場で使う道板で作った長椅子が2セット置いてある。数名の労務者が焼酎を飲んだり飯を食ったりしていた。テーブルの上には大きな炊飯器とみそ汁の入った大鍋と茶碗の入った籠が置かれている。そばには丼があってタクアンが盛られている。

空腹だったので飯を大盛りにして味噌汁とタクアンで食っていると、一人の男がこう言った。

 

「兄ちゃん、3階が寝るとこやけんね。一番奥の下のベッドが空いとるけん」

 

3階に上がると段々ベッドがズラリと並んでいる。この日は汗臭いベッドに倒れこんで泥亀のように眠った。

 

明るさを感じて目を開けると周囲のベッドからむさ苦しい男たちがゴソゴソと身仕度を始めた。起きてキョロキョロしていると向かいのベッドの男が、

 

「あそこにある作業着と長靴ば使わんね」

 

と隅の方に置いてある段ボール箱を指差した。

 

箱の中にはヨレヨレの汗臭いナッパ服がいくつも入っているので、適当な物を選んで身に付けた。長靴も作業着も誰が使ったのかもわからない。臭かったが、そんな事を気にしている余裕は無い。皆と一緒に食道に降りて丼飯に卵をかけて流し込んだ。時計が6時50分を指した頃、モジャモジャ頭にヘルメットをかぶって地下足袋を履いた男がやってきて名前を呼び始めた。

 

「山下真、4号車、渡辺班」

 

皆がゾロゾロ階下に降り始めたので一緒に付いていった。4号車と書かれた泥だらけのハイエースに乗った。車は渋滞する天神を抜けると福岡の西区方面を目指した。海岸沿いを小一時間走った。造成地が見えてきてその入り口で車が止まった。プレハブ小屋から一人の男が出てきて皆を集めてこう言った。

 

「今日は排水路の土管の設置です。みなさん、事故のないようにお願いします」

 

訓示が済むと皆がゆるりとした足取りで奥の方へ移動した。工事現場に着くと道具箱が置いてある。それぞれ左官コテやスコップなどを取り出して作業にかかった。モタモタしていると、訓示の男がやってきた。

 

「そこの人、モルタルば錬るけん、ネコで砂ば運んでくれんね」

 

「えー、ネコちゃなんですか」

 

「ほらほら、そこにあろうが、一輪車たい。早く砂ば運ばんね」

これが僕の土木作業員デビューとなった。

故郷へ(29歳)

 

夕方5時まで働くと仕事は終わりだ。7〜8名の仲間と一緒に箱バンに乗って元来た道を作業員宿舎へと帰っていく。だいたい6時前後に着くから事務所へ行って1800円の日当をもらう。近くの銭湯に行ってから食道へ行く者もいれば、そのまま食道へ直行して飯を書き込む人。それぞれである。

 

それからしばらく日雇い労務者の群れに交じっていたが、一日働いても手元に残るのは1000円程度。わずかなこの金も2〜3日分貯めて日曜日になると福岡競艇に行きスッテンテンになった。

 

そんな暮らしを2ケ月続けていたが、先に見込みがないので夜、風呂に行くふりをして博多駅へ逃げた。辞める時はみんな、黙って出て行った。それがこの世界の暗黙のルールでもあった。博多駅から鹿児島本線下り荒木行きに乗って終点で降りた。荒木駅から実家のある広川町まで夜道を歩いた。

 

1時間半歩いて実家にたどりついた。母屋へは行かずにアジトに向かった。汚い部屋だが電気を点けて横になると安心した。博多駅でメロンパンを食った切りなので腹が減っていた。しかし、母屋へ行って飯を食うのはためらわれた。親父がいたらと思うと気が萎える。30分ほど横になってぼんやりしてるとガタガタと音がして破れ障子が開いた。

 

「ほら、これば食べんね」

 

母だった。ご飯と大根の煮しめがのったお盆を抱えて立っていた。息子の部屋に電気が点いているのを見て全てを察していた。3日ほどアジトでゴロゴロしていたが、どうにもやれきれなくなって、また博多駅裏の人夫出しに転がり込んだ。

 

しかし、ここにも馴染めずに給料も貰わずに2日で逃げた。そしてまたアジトに戻った。母に珈琲代をせびってサンラビに行った。

 

季節は流れ昭和54年も師走に入っていた。珈琲を飲んでいると以前勤めていた呉服屋でアルバイトしていた山口君と偶然出会った。

 

「あ、山下さん、久しぶりですね。今何していますか」

 

「おお、山口君、俺は無職でブラブラしとるよ、アンタ、まだ呉服屋行ってるとね」

 

「いいえ、もう辞めました。正月はテキ屋でバイトするつもりです。あ、そうだ、山下さんもよかったら一緒にバイトしませんか。祐徳稲荷の参道でヤキソバとか焼きイカを売るだけですよ。日当は8千円。その変わり31日の晩から元旦の朝まで眠られんです。この日だけバイトを探してくれと頼まれています」

 

「うんうん、頼むばい」

 

渡りに船だった。たった1日だが正月の飯にありつけて8000円とは願っても無い事である。こうして正月に8000円を手に入れた。アジトに戻って喫茶サンラビに行ってスポーツ新聞を見ているとまた、一行広告が目に着いた。

 

「販売員募集・月収25万可・日払い・出張有、要普免・30歳迄」

 

どんな仕事かわからないが、スーツを着て面接に行く事にした。面接会場は博多駅前の近代的なホテルの一室で行われた。簡単な面接だけで即採用が決まった。そして岡山へ行けと命じられた。岡山駅近くの旅館の名前と電話番号を書いた紙を渡された。旅費は個人負担だという。

 

博多駅から岡山へ行って指定の旅館に着いた。担当者に事情を話すと旅館の大広間に連れていかれた。そこには10人ぐらいの若者たちがいて、指導者らしい人物に

 

「誰だれ何本」

 

と次々に売上の報告をしていた。報告が済むと指導者が明日も頑張ろうと締めくくって夕食が運ばれてきた。一緒に食べるように促された。飯代1000円を払うように言われた。それから指導者に別室に呼ばれた。現金は預かると言われ、なけなしの1000円は預かると言って取られてしまった。仕事は早朝から地方の民家を回って湯飲みのセット物を売って回る事だった。

 

湯飲みが木箱に5個入って1万5千円が売値だという。それ以下では売れないが2万円で売るのは構わない。セールスする時は関東便を使うように指示された。次の日先輩に付いて回って仕事の内容がわかった。

 

バッタ商品を仕入れて巧みな話術で無知な主婦に押し売りするのである。ほとんど詐欺と言って良い。1本売れば販売員に1万円が支払われるのだという。これはヤバイ会社だとわかったので帰らせてくれと申し出た。1000円だけ返してもらって赤穂駅へ向かう。朝飯食ってとりあえず岡山までの普通切符を買うと80円残った。昼に岡山駅のホームに着いた。

 

さて、これからどうやって故郷へ帰ろうかと思案するが何も思いつかない。腹が減ったので駅のホームの売店でアンパンを1個食ったら無一文になった。椅子に座ってぼんやりとしていると、下関行きの快速電車がホームに滑り込んできたので思わず飛び乗った。検札が来ると車両を移動して下関に着いた。今度は熊本行きの普通列車に乗った。どこで降りようかと色々考えていると、故郷から4キロぐらい離れた所に西牟田という無人駅があった事を思い出した。

 

西牟田に着いてみると案の定、無人駅だったのでホッとした。柵をまたいで外に出て実家を目指して夜道を歩いた。空腹と疲労でヘロヘロになりながらもなんとかアジトへたどり着いた。

昭和54年・季節労働者(29歳)

 

廃屋のアジトで目覚めると空腹を覚えた。母屋へ行って食卓のある板の間へ行くと親父が座ってお茶を飲んでいた。母は朝食のしたくをしている。誰も何も言わない。黙って親父の向かいに座った。親父は知らん顔をして新聞を見ている。母が味噌汁とご飯をよそおって親父の前に置いた。次に二人分の味噌汁とご飯を並べた。

 

「ほら、アンタも食べんね」

 

ガツガツとご飯をかき込むと味噌汁をすすった。旨い。実に旨い味噌汁だと思ったが口には出さなかった。ロングホープを吸いながら親父が読んでいた新聞を読んでいると

NECの大津工場が季節労働者を募集している広告が目に着いた。これだと思った。もうセールスや土工はコリゴリした。

 

工員の方が堅実だと思った。呉服屋のセールスなど大して必要でもない物をあの手この手を労して売り込まねばならず、よほどの才能が無いと成績を上げられない。今時着物など滅多に着ないし。民族衣装として残るしかあるまい。

 

その点、NECと言えばコンピュータ関連のメーカーとして一流であり、LSIとかいう部品も作っていて将来有望だといつかテレビで言っていた気がする。母に無理を言って久留米までのバス賃をもらって、履歴書を持って職安を訪ねた。運よく採用がその日に決まって、母に報告すると再び大津までの旅費を用立ててもらった

 

昭和55年1月16日、

 

NEC大津工場の季節労働者として働く事になった。勤務は三交代である。早出の時は朝の5時ごろ寮を出なければならない。比叡おろしが琵琶湖から吹き付けるので駅やバス停にいると寒くてたまらない。京都の底冷えとか言うけど、アレがそうなのだろうと思った。

 

勤務は成形という部署である。LSIの基板に樹脂を流し込んでチップに成形する。その金型を操作するのである。これは誰でもできる。NECは契約満了の6月を待たずに5月中旬に辞めて故郷へ戻った。金融公庫の借金200万円は親父がわずかな土地を処分して清算してくれたという。

 

季節工で得た金が10万ちかくあったのでホンダの50CCのバイクを買った。夏の事である。この頃、ゲンちゃんがアジトへやってきた。

 

「マコちゃん、俺と久恵ちゃんは結婚したぜ。お前はどこに行ったかわからんし、久ちゃんは親父と兄貴から責められて家から出してもらえんし。仲人さんにも頭下げに行ってもろうたり。久ちゃんが相談したいとこがあるけんと。電話してきて度々会ってたらこうなった」

 

思いもよらぬ事を知らされて吃驚した。そして、

 

「俺たちは、お前の事は全然気にしとらんぞ」

 

正直ショックだったが、冷静な振りをして自分の気持ちを伝えた。

 

「ああ、そうね、そんなら、久恵ちゃんに俺も一遍会いたか。気持ちにケリを付けたいけん。どこかで3人で会う事はできんね。そうせんと偶然街で会った時、どんな顔していいかわからんけん」

 

それから数日後に、久留米市荒木町の新居のアパートをバイクで訪ねた。冷えたビールとコップ肴をお盆に乗せて彼女が現れた。新妻となった久恵は一段と綺麗になっていた。駆け落ちの件には触れずに世間話に終始して酔いを醒ましてからアパートを後にした。→NEXT



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