<突然の出来事>

34歳のとき脳内出血で倒れた。1985年1月16日のことである。
場所は琉球大学キャンパスの架橋工事現場だった。仲間たちと車座になって、昼の弁当を使っている最中のことだった。突然目の前が暗くなり気分が悪くなったのでその場で横になった。異常を察した仲間が抱き起こそうとしたが立つことができない。

すぐに仲間に抱えられ箱バンに乗せられて、大学内の小さな診療所に運ばれた。居合わせた若い医師は、ペンライトで瞳孔を見ると、1から10までを数えてみなさいと言った。意識はあったので普通に数えることができた。

「ここでは何もできません、専門の病院へ行ってください」
医師の指示で転送された先が那覇市内のM病院である。すぐCTが撮られ、
「普通若い人はならないのですが、高血圧性頭部内出血です」
ストレッチャーに乗せられたまま医師から告げられた。

しかし、高血圧性と言われても解せなかった。半年前生命保険に入ったが、そのときの検査では高血圧の症状は全く見られなかったからだ。やがてストレッチャーは病室に入った。待機していた二人の付添婦さんが、私が履いていた長靴を脱がせると、作業ズボンをハサミで切ってパジャマに着替えさせられた。この間、作業は終始無言で行われた。

着替えが終わると若い看護婦さんがやってきた。手には透明の細いビニール管と小さな薬ビンを握っている。何だろうと思って眺めていると、彼女は薬ビンから白いゼリー状のものを指ですくうように取り出すと、ビニール管に塗り始めた。ワセリンである。10代の頃、自動車板金工の見習いをしていたとき、手荒れ予防にワセリンを塗っていたのでわかった。

ワセリンを塗り終わると看護婦さんは、何のためらいもなく、股間から赤マムシをつかみ出して、尿口からビニール管を差し込んだ。一瞬、ギョッとしたがビニール管はすぐに膀胱にまで達した。この処置は導尿というのだと、後で付添婦さんに聞かされた。管の根元にはビニール製の袋が着いている。尿が膀胱から管を通って袋に溜まるしかけだ。

脳がダメージを受けると排尿障害を起こしやすいという。だからその対策だという。私の場合3日目には自力排尿が可能になったので、後は尿瓶が用意された。大きい方もベッドの上でするわけだが、これができなくて困った。ほとんどの人が発病を機に便秘に悩まされるようになっていく。入院初期の一番の願いはトイレで用を足すことである。どうも人間の体というのもは、あの臭気のする狭い部屋に篭らないと便意が起きないようである。
          
<サクランボ
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付き添いさんは60歳を過ぎた石垣島出身というおばちゃんと、豊見城からきていた36歳の綺麗な未亡人良枝さんだ。二人が交代で24時間付き添ってくれる。料金は1日1万4千円を請求されたが、どうしようもないので会社に回してもらうように頼んだ。入院して4日目のことである。自分でもあきれるような行動をとってしまった。

眠れないでいる私を見かねた良枝さんが、「体を拭きましょうか」と言って濡れタオル絞り、足元から拭き始めてくれた。まぶたを閉じてヒンヤリとした触れタオルの心地よさに浸っていた。やがて、タオルが徐々に体を上がってきてちょうど顔にきたときである。良枝さんが僕の顔を覗き込むような格好になった。

甘酸っぱい香りを感じて瞼をあけると目と目があってしまった。目の前にはサクランボのような唇がある。辺りに人の気配はない。ベッドは完全にカーテンで囲われている。私は思わずサクランボを食ってしまった。良枝さんは、
「まあ、」
と言ったが黙々と清拭を続けた。このことがあってから良枝さんと親しくなった。彼女は米軍基地で働く知り合いにもらったと、アメリカ製の銀チョコを持ってきてくれたりした。

5日目。父と弟の留次郎が空路やってきた。二人は作業員宿舎で荷物の整理をしながら、勤務表代わりの手帳を見つけ大変な驚きようであった。留次郎は熱心に手帳を見ながら言った。
「こりゃあひどか。いくらなんでん働き過ぎばい。労災になるばい」
と驚いた。

父も
「おう、公傷にしてもらうごつ頼まにゃあいかんね。こっちで(故郷)で病院ば探しとくけん。動かるるごつなったら帰ってけ」
こんな言葉を残して、短気者の父は留次郎を従えてドアーの向こうに消えた。

入院して1週間目でリハビリが始まった。朝の点滴を済ませると、付き添いのおばちゃんから車椅子に乗せてもらいリハビリ室に連れていかれた。中には35歳ぐらいの男が待っていた。カルテを見ながら私の車椅子の前にしゃがみ、麻痺側の左足の膝頭を三角のゴムが付いたハンマーのようなものでコンコンと叩いた。アキレス腱の反射を見るのだという。子供の頃やった脚気の検査と同じだ。感覚は全くないのにアキレス腱の反射がすごい。

おばちゃんは彼のことをリハビリの先生だと教えてくれた。本当はPT(理学療法士)というのだが、最初見たときは鍼灸師かと思った。体のあちこちを調べられ、ここでも数を言わされた。今度は10から逆に言えというのである。10、9、8・・・最後の1までを言い終えると、「これはりっぱだ」と褒められたが、なんでそんなことで褒めrされるのか良くわからなかった。

                  

後で良枝さんに聞くと、言葉や計算能力の程度を確認するためらしい。物が言えなかったり計算ができなくなると、社会復帰する際に大きな障害となるため、かなり重要なことらしい。体の右半分に麻痺がくると、物がうまくいえなくなる。言語障害と言うそうだ。自分の場合、右脳出血なので体の左側に麻痺がきている。物を言うことはできるが顔はゆがんで目は薮にらみになった。

ついこの昨日まで工事現場ではあんなに元気だったのに。日がな一日、昼飯も食わずにコンクリ打ちの重労働にも耐えていた。ここに来る前、鳥栖にいた現場の健康診断でも異常はなかった。それなのに突然手足が動かなくなるなんて。自分が病気もちだったのかそれとも連日の突貫工事のせいなのかよくわからない。見舞いにきた中村工事部長からは、「仕事とは関係なかぞ、これは君の病気じゃが」と決め付けられてしまった。