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それでも家を建てました

調停も終わりしばらくすると、突然階下の小森という初老の男性が苦情を言いにやってきた。私の部屋から音がして眠れないというのである。心当たりがないので追い返したが、騒音源はお前の部屋に違いないと言い張って聞かないので閉口した。その後も繰り返し文句を言いにきた。あまりしつこいので公団の職員も調査にやってきたが異常はない。小森さん自身も私の部屋に入って水回りとトイレの中も見てもらったが、やっぱり異常は無い。

私の団地は高層集合住宅9階建てである。部屋の中を2本の大きなパイプが通っている。上の階で排水すれば一階の部屋には増幅されるだろう。そのために一階の家賃は割安に設定されている。こういうことはどうしようもないので、我慢できなければ戸建てに引っ越すしかあるまい。と。こういうと。気に入らなかったらしくて、今度は私の郵便受けにゴミを入れるなどの嫌がらせをするようになった。廊下で会うと大声で威嚇するようになったので、とうとう頭にきて、パンチを繰り出したが、バランスを崩して転倒してしまった。興奮すると麻痺側の手足が緊張でブルブル震えてどうにもならない。

悔し涙を拭きながら我慢するしかない。しかし、その後も小森さんの嫌がらせが続くので、警察に相談に行ったが、この程度のことでは取り合ってくれない。殴られでもしない限り立件できないというのである。満足に歩けもしない者を大声で威嚇するのは犯罪にならないのかと言うと、それぐらいではならないらしい。私の方が殴ったら逮捕されるので喧嘩もできないということである。弱いものと見るとかさにかかって来る輩はどこにでもいるもので、身障者の場合理不尽さを享受しなければならない運命にある。

主夫業も板につき料理のレパートリーもサバの煮付け、オムレツ、鶏肉のワイン煮など次第に増えていった。そんなある日、典子から妊娠を告げられとき、嬉しくもあり戸惑いもした。彼女は子供を欲しがったが、私は子育てに自身が持てなかった。38歳という妻の年齢を考えると、高齢出産ということが気になる。初産であるからよけいである。それに親が障害者だと子供が学校でイジメに合わないかというのが一番の気がかりだ。色々不安なことが頭をよぎる。しかし、着替えを持って病室を訪ねたら典子が泣いていた。着床がうまくいかず流産してしまったといのである。

週刊誌や新聞の読者コーナーへ投稿をしては退屈をしのいだ。しかし、成果があがらないのだ。長い文章が書けるようになりたいと切に思った。残念ながら知識不足で論が脹れない。小説はどうやって書くのだろう。想像力が不可欠とマニュアルにはあるが。そもそもマニュアルなんてそんなものがあるのさえ知らない。ワープロ専用機であるNECの文豪ミニというデスクトップ型も大枚18万円をはたいて机の上に据えてみた。しかし、ハガキやA-4用紙1枚に文字を打ち込むと、もう後が続かない。文章を書くという作業は実に難しい。

英語力がゼロ、分数さえわからないという私にはパソコンはおろかワープロ専用機ですらもてあました。住所録の使い方がどうしても理解できない。とうとう嫌になって放り出してしまった。
「ええくそ。こげな事はもう止めた」
新聞の折込広告で見たお中元配達の募集に電話した。すると障害者でもいいというので、早速雇ってもらった。完全歩合制である。1個配達してナンボの世界だ。車は持ち込みだ。しかし、単なる配達でも簡単ではない。商品の運搬すらできない。片手で商品と伝票を持ち、4階以下のエレベーターの無い部屋などとうてい不可能である。戸建てに行くと犬にまで吼えられて、足がすくんでしまう。1週間で解雇された。

1994年4月。典子は持病の腰痛が悪化し、身動きがとれなくなった。布団から立ち上がるのもやっとである。1週間ほど休んでやっと動けるようになった。あまりにも辛そうなので、
「おい、もう仕事ば辞めて、実家の敷地に小さな家を建てて年金で暮らそう。家賃がいらんなら食うだけはなんとかなるやろう。オレが運転してお前が新聞配達してもよか。二人でなら軽運送もできるかも知れん」
私が、こんな風に切り出すと妻も頷いた。


私は典子から7万円を生活費としてもらうだけである。彼女がいくら給料をもらっているのかも知らない。家賃は勤務先の職員住宅なので無料だ。それに私が重度障害者なので、扶養家族になっている。この手当てが毎月1万6千円典子の給料に加算されている。家にいったいいくらお金があるのか知らない。
「いったいいくらあるとか」
問いただすと
「1000万円」という。
だとすれば小さな家は建つ。キャッシュで建てられる。家さえあれば食い扶持は障害年金でなんとかなるだろう。よし。両親を説き伏せて実家の敷地に家を建てよう。将来的に両親の介護も問題もある。母の介護は問題ないが短気で気難しい父のことになると、兄弟で押し付け合いになることは目に見えている。障害者だからとパスするわけにはいかな。自分が倒れた時世話になっているから。よし、故郷に帰ろう、と決意した。

建築費を坪40万と計算して20坪の家で800万か。これに水道、電気工事、キッチン用品など200万もあればいいだろう。しかし、廃屋になってるのを取り壊す費用まで含めると200万では足りなさそうだ。じゃあ、15坪にしたらどうだろう。家だけで600万円だ。残り400万で諸々の工事費はまかなえるはずだ。15坪と言えば住んでいる2DKの団地よりも広くなる。

4月下旬。典子を連れて、実家を訪ね、両親を説きに説いた。

「父ちゃんも母ちゃんもいずれ介護が必要になるときが来るけん、そげんなったら、そばに身内が一人でも多い方がよかろうもん、留次郎と知子だけじゃ、大ごとばい」

「おまいがそこまで腹ばくくったらら。小さな家ば建てて年金で細々と暮らしていかやんたい」

荒男だった父もめっきり弱っている。母も子宮がんを患っていらい、枯れ枝のようになってしまった。最初はなんのかんのともったいをつけていた父もようやく頷いた。実家の隣が大工をしている。通称は「ヤー」。私より4歳上で野田安太郎という。子供の頃良く遊んでもらった。小鳥や川蟹を捕る罠やうけも手作りするという器用さだった。中学を出て工員になったが途中で辞めて、村内の大工の棟梁に弟子入りして大工になった。

実家の次に隣家を尋ねた。
「坪40万ならでくるばい」
と安太郎が言う。気がかりだった古家の解体費用を尋ねた。

「おお、あの家か。ありゃあ、こまかけん安かばい。へえーべー5千円が相場よ」。

思ったより安価だ。よかった。


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