1985年10月12日。国立療養所C病院を退院、実家に戻った。父は最寄の福祉事務所へ倅の社会復帰の相談に行った。とりあえず、入院中に申請をしていた障害者手帳の発行を急いでもらおうということになり、担当者が関係部署へ電話で督促をかけた。

担当者の心配で、リハビリセンターで、今後も訓練を受けたらどうかと提案を受けた。医者がもうこれ以上の回復は見込めないと、いうのに。まだ、リハビリをしてくれるところがあるという。満足に歩くこともできない状態では今後の事を考えると真っ暗である。だいたい脳卒中というのは老人の病気だから、若い患者をほとんど見かけない。何をどうしていいのかさっぱりわからない。

リハビリセンターというところでは1年〜2年の間、寝泊りしながらリハビリと社会復帰に向けての心の準備をするのだという。病院とはまた違う施設のようだ。しかし、1〜2年もの間寮に入っているのだから食費や治療費はどうするのかと心配である。社会保険が利くにしても一部負担金だけでも馬鹿にならないだろう。貧困層の我々には所詮、無理なのだろう。

そういう思いを告げると、低所得者層には費用免除の制度があるので、かかっても食費の負担ぐらいだろうと言われた。収入によって負担金に相違があるというので、我が家の所得状況を調べてもらった。貧乏ぶりだけは他所に負けていなかったので、費用はすべて免除されるという。

1985年10月15日、1種2級の重度障害者に認定された。11月1日。リハビリセンターへの入所と決まった。当日、留次郎は仕事のやりくりを付けて、私を送りにきてくれた。筑後平野の朝晩はめっきり冷え込むようになっていた。「西日本随一の設備とスタッフがそろったリハビリティーションセンター」とはパンフレットの文面である。なるほど。白亜の2階建ての立派な建物だ。玄関の自動ドアーから中へ入ったとき、私のブンブン回る足も治るのかもしれないと思った。

この日5名の同時入所があった。30〜40代の脳卒中後遺症者が4人。もう一人は再生不良性貧血という難病の30歳男性である。身体検査と問診があり無事に入所手続きを終えた。私は、同時入所の森末三郎さんと同室になった。彼は福岡で建築板金をしている39歳、年齢が近いので同じ居室があてがわれたようである。

入所手続きが済んでみんなで夕飯を食っているとちょっとした出来事があった。北九州から来ていた40代男性が家に帰るとダダをこね始めた。当直の舎監がやってきてなだめるが聞き入れようとしない。
「こげな体になっては女房も抱けん、生きとってもしょんなか」
ヨダレをたらし、泣きじゃぐりながらお膳をひっくり返してしまった。すぐに家族に連絡が行き、2時間後には息子らしき人物が車で迎えにきてひきとった。

              

リハビリセンターの朝は8時から朝食。9時にラジオ体操が居室棟1階の廊下中央で行われる。10時になれば訓練が始まる。午前2時間午後1〜2時間の訓練プログラムが個人の状況に合わせて組まれている。PT(理学療法士)OT(作業療法士)ST(言語療法士)どの先生もピチピチしている。

これまでは、男先生ばかりが担当だった。ここでは女先生が担当になるといいなと密かに期待しているとPTが26歳の坂本千鶴先生だったのでよかった。傷心の患者には女性の持つ優しさが必要なのだ。美人ならそれだけでも効果がある。男の患者がリハビリを頑張るからだ。残念だがOTは男先生である。PT担当が毛むくじゃらの男先生だという49歳の井上さんは、私のそばにきてしきりにぼやく。

「あ〜あ、アンタはよかねえ、千鶴先生じゃけんなあ」

ある日、井上さんは毛むくじゃらの男先生から、足の屈伸運動を受けていた。麻痺足を動かしてもらうのは実に気持ち良い。井上さんはウットリとした表情でマットに転がっている。PTは足を屈伸させながら回すような運動を加えた。するとこの運動が井上さんの股間を刺激したのだろう。股間の中心部がムクムクと膨らんできたのである。この状況を目撃した毛むくじゃらの男先生の方が慌ててしまった。居合わせた者は下を向いてクスクス笑っている。すると突然、

「あはははっ」

大声で笑う者がいた。50代の男性吉田さんである。彼は一度笑い出すとなかなか止まらないのだという。これも脳卒中の後遺症だというので驚いた。
       

リハビリセンター内での飲酒はご法度である。しかし、密輸するものが後を絶たない。ズボンやジャンパーのポケットに忍ばせてくる者、家族と外出して紙袋に隠してくる人、建物の周りの植え込みに置いておき、後から取りに行く者。などなど。抜け荷の手口は様々である。
しかし、半数は挙動不審で関所のある、寮母詰め所で御用となる。たとえ関所破りに成功しても、夜中の巡回で、部屋にこもった匂いでバレてしまう。

見つかれば1回目は厳重注意。2回目で始末書を書かされる。3回目ともなると、お上にもお慈悲は無い。強制退所となる。しかし、それでも飲酒は後を絶たない。外出先で飲酒をし、側溝にはまって怪我をしてると通行人から電話があったり。またある者は数キロ先の駅をうろ付いているのを警察に職務質問を受け保護されたり。

訓練はたいてい3時で終了する。夕食は5時からである。それまでは自由時間だ。居室でくつろぐ人、娯楽室で雑誌や新聞を読む人。自主訓練に励む人。4時45分になると障害の程度の軽い人が配膳の手伝いをしにいく。これもリハビリの一環だという。

夕食が済めば月水金曜であれば6時から風呂に入れる。入浴時間は寮母と男の職員が手伝うので安心である。風呂に入るのも、週1回のシーツ交換も自分でせねばならない。掃除もである。生活そのものがリハビリとなっている。消灯は9時だ。この時間になると同室の三郎さんが、必ず念仏を唱えるので閉口した。あれは興味の無い者にとっては雑音以外の何者でもない。彼も病気を機に信仰に目覚めた口である。大酒のみでとても信心深いとは思えぬが。

入所して1ケ月があっという間に過ぎた。師走半ばの14日、雪のチラチラ降る晩に、センターの玄関にある応接室で夕食後テレビを見ていると、大変興味深いニュースが流れた。循環機器系疾患による過労死が急増しているというのである。心筋梗塞、脳梗塞、脳出血で亡くなったり、一命を取り止めても重い障害のある人が増えているから弁護士会では「過労死110番」を設置したというのである。これまで、因果関係の立証が難しいとされていたが、近年の研究により、過重労働などによるストレスが原因であるとの研究報告がなされたと、テレビは報じる。私は、これはそっくり自分のことである。しかし、不服申し立てをする期日はもう過ぎている。後2ケ月早くこのことがわかっていればと、ホゾを噛むしかなかった。